イルミネーションが無理という話

イルミネーションスターズのことが好き。ユニット曲の好みで言えば一番好きかもしれないです。ことシャニマスに関しては「一番」は驚くほど流動的に移り変わるので、常に暫定一位であり、それゆえに安易なランクづけに陥らないで済んでいるつもりでいます。そういう性格の一番なので、今の自分を反映しているとも言えるような気がするけれど、とりあえずイルミネーションスターズが好きです。

ただ困ったことに、実はイルミネーションがとても嫌いです。あの木とかに巻き付けられてる電飾のことです。普段さらっと流していますが、好きなもののうちにちょっと受け入れがたいものが潜んでいるというもどかしさのことを、たまにふと思い出します。

そうは言ってもイルミネーションスターズのモチーフは主にスターの方にあるのであって、イルミネーションの方は普通に英語の光り輝くものとしての意味が強いような気もします。そういうのもあって、これはさして強い困惑でもないのですが、ここで言いたい話は電飾のイルミネーションが無理であることが僕の生活に染み付いているということです。(以降、シャニマスの話なくなります。しかしシャニマスを好む人には伝わってほしいなという気持ちもあります)

ひとまず、なぜ嫌いなのかを説明してみます。しかし説明することによって誰かの好き嫌いを変えるつもりはなく、またイルミネーションを好きな人を糾弾するつもりもないことは先んじてお伝えしておきます。むしろそう誤解させることをよく承知しているからこそ普段は黙らざるを得ないのですが、自分の生に染みついた実感が言説空間において緩やかに抑圧されていることがまさに今回のトピックになります。

 

さて、僕はあまり表立っては表明していませんが、環境保護への関心が非常に強いです。幼い頃から自然が好きで、昔見た環境問題に関するテレビ番組があまりにも衝撃的で、なんとかしなければならないという思いに駆られ、それ以来、立ち居振る舞いに大幅な変更を強いられました。とはいえ所詮は小学生ですのでやれることは限られており、食べ物を微塵も残さないようにするといったことくらいしかしていませんでした。しかしそうしたことが魚を異様にきれいに食べたり好き嫌いが一切なかったりといった今の自分につながっているもので、大きな影響が与えられたのを感じます。そのテレビ以来、中でも脅迫的に気をつけたのは電気をつけっぱなしにしないということでした。無駄につけている電気が毎秒毎秒プール数個分もの氷河を削る原因であるように思われ、暖をとるために使われる化石燃料がどこかの島国の沿岸を侵食し、また地球の気温を上げて生き物たちの生息地を奪っているのだという意識がありました。

もちろん、自分一人が節電したところでこれらの問題が改善されることはなく、実質的に進行を遅らせることはないとわかっています。ただ、個人的な問題としては電気がついているとき、自分自身が暖房を使うときも含めて、恐るべき罪を繁栄させているように思えてしまいます。僕がオーバーに受け取っているとはいえ、電気をいつまで無邪気に使えるかという問題自体は何とかしなくてはいけない問題ではあることは(程度の差こそあれ)共通見解であるでしょう。ただし現実には様々な社会問題が蔓延っていて、環境問題は先延ばしにされることも多い問題です。僕にとってはそれが先延ばしできないほどに切実に現前しているということが伝えたい内容です。

 

そうしたことを踏まえると、イルミネーション嫌いの理由がお分かりいただけるのではないかなと思います。僕にとって切実に何とかしなくてはいけない問題そのものである電力消費が堂々と肯定されているのは耐え難く思われるということです。

これは即座に弁明するのですが、僕にとってイルミネーションはグロ画像のようにすら思えます。それを好んで見る人がいるのはわかるけれども、見た目から圧倒的な不快感を催させるために公には置かれるべきでないものと思われるということです。しかし、イルミネーションを好む人のほうが圧倒的多数であって、僕のように積極的に忌み嫌う方がよほどめずらしいものに対して、多くの人が嫌うグロ画像を重ねるのは不当です。また、もし僕がイルミネーションが浪費する電力について訴え、環境破壊の不可逆的ダメージについて訴え、あんなものは無くした方がいいと主張したとしても、気持ちを共有できない人を納得させることはできないと思います。そしてまたイルミネーションにはそれなりに集客力があって美しく思う人がいるのだし、それを捨ててまで節電するくらいならもっと効果的な何かがあるだろうという効果的な反駁に容易に負かされることと思います。

だから僕は、自分がイルミネーションを嫌うことを根拠にイルミネーション撤廃を訴えるつもりはありません。ここでポイントとなるのは次のことです。イルミネーションを擁護するまともな反論はおろか、イルミネーションの電力消費を糾弾する議論でさえも、僕の気持ちの切実さからは逸れてしまうということです。どちらの議論においても、電力が野放図に消費されている事実に目をつぶって生きてなどいられないという僕の気持ちは取り零されています。

もし僕が自分の感じるものを伝えようとした場合に、自らの説明に客観的な正しさを求めようとすればなるほど自分自身がそれに向かい合っていたときの切実な苦悩が、議論から外されていってしまうという厄介さがあります。

 

これは別に被害者ぶって大仰に騒いでいるわけではありません。(あまりにも念入りに惨めになっているのは認めますが、考える手法としてそういうことをしていることをご理解ください)

上で述べてきたことは、理屈がいくら通っていてもその件に関して発端となっていたはずの、日常に根付いていた切実な悩みはどうにも取りこぼされてしまうよね、ということです。決して高尚な話をしているのではなくて、これってけっこうありふれたことなんじゃないかと思っています。

たとえば、ネタバレを気にするとかの水準でも話ができると思います。いかに相手がネタバレを気にしないと言ったところで、こちらとしては何の情報もなしでそれを初体験する可能性を汚したくなくて、どうしてもネタバレを回避したくなるというのはわりとある話じゃないかなと思います。相手がいかに丁寧にネタバレOKかを説明しても、いざそれに従って説明したとき、やはり「ネタバレをしてしまった!」とか「本当に大丈夫か?」とかそういう気持ちが大なり小なりよぎると思います。これは相手の説明が不十分だったのではなく、ネタバレについての論理的言説がネタバレに対する自分の態度に効力を持たなかったと見る方が妥当です。自分がその状況に対して感じる(切実でリアルな)思いは取りこぼされてしまうよね、というのはこちらの例の方が納得されるかもしれません。

あるいは若干ずれる気もしますが、ライブでの感動をうまく伝えられないとかいう例もいけるかもしれません。どれだけすごかったかを言葉を尽くして説明したところで「つまり君はかくかくという文脈を踏まえたうえで披露されたその歌に、しかじかの演出が重なったことで感動したのだね」と言われれば、分析が完璧であるほどに「そうっちゃそうだけど何もわかってない」と言いたくなりそうです。聞き手が完璧な理解を目指すのをどこかで投げ捨て「君が感じたほどじゃないけれど、すごさの一部はわかった気がする」などと言うとき、出来事についての合理的説明はリアルな感動を拾いきれないということを暗に理解しているのかもしれません。(が、これはちょっとズレてるような気もします。自信ないです)

 

上で述べてきたように、いかな完璧なロジックを用意したところで個々人が抱く「切実さ」が拾いきれないことは、実はかなりありふれた話だと思います。僕がイルミネーションを理屈のうえから許容すると同時に、それが本当は渋々でしかないという事情は、構図としてはよくあるものではないかと思います。

合理的説明はその出発点となったはずの切実な気持ちをしばしば置いてけぼりにします。そうであるならば、理屈上そうであるからといって誰かの「どうしても納得できない」気持ちを無意味なものと断定できるわけないのですが、理屈を並べて、ときに相手の出した理屈を裏返したうえで「俺の勝ち(論破!)」とし、その不合理さをバカにする光景を見かけることは珍しくありません。しかし大事なのは理屈の正しさではなく、なんとかして正しく理屈をひねり出させた日常的な苦悩の方だと思います。「うまく言えないけれど納得できない」という気持ちこそ本当に扱いたかったものであるはずで、自分のものであれ他人のものであれ、そういうもぞもぞする「納得いかなさ」はもっと大切にされてよいはずです。

 

(追記:自分が詳しくない話題に足を突っ込むので余計なことしてるかもなのですが、たとえば女性差別撤廃のためのロジックがある種の人の生きづらさにつながって「女性の敵は女性自身」と笑いのタネになることについて、本当にそれって論者たちがバカだからでしょうかねって話にもつながっていきます。揚げ足とるのは簡単ですが「その議論を立てて本当は何を言いたかったのか」とか「どういう苦境に立たされていて改善を望んsのか」とか、そういうことを汲もうとする方がまず大事なんじゃないですかねってことにも直結する話題のつもりでした)

 

 

補足

さて、これまで述べてきたことは、(具体例はすべて僕が出したものですが)主張としては「現実のむずかしさと哲学のむずかしさ」という哲学論文を僕なりに読み取ったものとなります。

補足と言いつつも大事なことなので、オリジナルの議論を部分的に再構成します。

 

著者のコーラ・ダイアモンドは3つの例をあげながら哲学の議論が現実のむずかしさから逸れてしまうことを述べます。なお「逸れ」というのはスタンリー・カヴェルの議論から持ってきた概念で、この論文が掲載されている本には続けてカヴェル自身がそれを受けて書いた論文が掲載されています。

さて、この論文で主に取り上げられるのはクッツェーという作家が行なった講義です。この講義は入り組んでいて、クッツェーはわざわざ架空の女性作家エリザベス・コステロが講義をするという小説を読み上げることで講義としています(この回りくどい語り口についてはここでは触れません)。この講演で述べられているのは一見すると動物解放運動です。重要なのはコステロが「私たちが動物に対して行なっていることへの恐怖に取り憑かれ」ていることで、「彼女が動物に対する人間の行ないを知り、その行ないへの恐怖によって、そしてほかの人々がいかに取り憑かれずにいるかを知ることによって傷ついている」ということです。

通常、動物解放論者は「動物に対してこんなにひどいことをしている」ということが耐え難く、運動にかかわっていくのだと思います。そして続けて「動物には感覚能力がある。だから傷つけるようなことをしてはいけないんだ」というように議論が進んでいきます。しかし、このように自分の気持ちを汲むはずの議論を立てた瞬間から「動物が傷つけられていることに傷ついている自分の感情」が議論から外れて「動物が傷つけられていること」の是非のみが哲学的に議論されていくことになります。コステロが他の論者と異なり、また注目に値するのはまさにこの点で、「どうしてそれを知ってなお皆んなは平気でいられるのか分からない」というところに立ち止まっているからです。実際コステロは講義の質疑応答のとき、答えにならない答えを繰り返すばかりで哲学的議論にコミットしていません。

コステロは講義のなかでホロコーストの比喩を用います。コステロ(を通したクッツェー)の議論に対して、数名の動物解放論者がリアクションをしているのですが、彼らの理解によればホロコーストの比喩はコステロクッツェー)が自身の動物解放論の枠組みとして提示しているのだとか、動物と人間とを過激な平等主義によって結びつけようとしているのだとかいった話になります。しかし、コステロはある種の動物解放論を展開・擁護しているのではないというのがこの論文の立場です。そうではなく「ひとりの傷ついた女性が提示されている」という点に関心を向けます。

一旦論文を離れて、改めてこのことを自分の例に重ねて見ます。僕はあえてイルミネーションをグロ画像のようだと述べました。これはイルミネーションがグロ画像とある意味では同等の性質を持つと主張したかったのではなく、ふとそう思いついたことを使って話を進めたのでした。そういう言い方でもしないと僕が抱く不快感が伝わらないだろうという正直な(しかし理屈を通せない)感覚があったのだと思います。コステロホロコーストを引き合いに出したのも、動物搾取とホロコーストとのあいだには構造上の一致があると言いたかったのではなく、哲学的に回収し得ないが哲学的には一番取り上げたいはずの本心をもれなく述べようとするとそうなったからだ、という理解されます。

この論文のタイトルは「現実のむずかしさと哲学の難しさ」でした。コステロを例に出して見出される「現実のむずかしさ」のひとつは「私たちが行なっていることへの恐怖、私たちがそれを意識から消し去っていることへの恐怖のむずかしさ」です。そしてそれを扱おうとして、コステロの講義を論証的言説のコンテクストに入れてしまうとリアルな悩み苦しみの方は哲学者の理解から逸らされてしまいます。そのことをもって哲学のむずかしさ、無力とも言ってよいかもしれないむずかしさがあります。

 

論文の内容はこれに限るものではありませんし、たぶんいくらか理解の浅いところがあると思いますので、ご興味のある方は読んでみることをお勧めします。絶版っぽいですが……

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