JK化のこと

一年くらい前からちらほらあったブームですが、タイムラインの絵師たちが自分を女子高生化しています。

「あなたを女子高生化してみたー」という診断メーカーで出てきたのを描いたバージョンや、自分の癖(ヘキ)を詰め込んだバージョンなど様々にあって、なんかすごく楽しそうで羨ましく見ていました。最近またそのブームが再来しつつあるのか、よく見かけるようになり、いよいよ燻ってきたところにアイコンメーカーなどでもキャラクターは作れますよと教えてもらい、ついに憧れのJK化を成し遂げました。

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かわいい。かなり。

 

こちらのサイトを使わせてもらいました。

charat.me

 

思い返せば、自分を代表させるシンボリックなアイコンを持つことへの憧れは長らく持っていたように思います。テレビでトーテミズム思想の残る部族が自分の守護獣を自慢げに語るのを見て「自分も守護獣に誇りを持ちたい……」と思った記憶があります。最初の三匹の中からパートナーとなるポケモンを選ぶときも、チコリータとともに冒険する自分を引き受ける緊張感があったような気がします。

アイドルマスターを始めたときも似た思惑がありました。最初はシンデレラガールズだったのですが、これだけいれば自分とシンクロするアイドルがいるだろうという気持ちは正直ありました。あんまり人間としてアイドルを見ていなかったので後々反省しましたが……。

そういえば、小学生のときに座右の銘を持ちたかったのも同じかもです。また、タイに行ったときに「自分の生まれた曜日ごとに守護霊的なはたらきをする仏像がある」と教えてもらったことも思い出します。こういうのって大なり小なりみんな持ってる願望なんでしょうか。自分を代表させるアイコンを持ちたがる例、いくらでも出てきますね。

 

 

ただ、これらは全て与えられた選択肢のなかから選ぶなり割り振られるなりしています。自分で自分をあらわすことに責任を持つとなるとちょっと話が違ってきます。自分の好みのみならず、コンプレックスやら何やらが赤裸々に(あるいは暗黙裡に)表れている感じがあって恥じらいとともに成果物をツイートしてました。

実は、採用しなかったJK化アイコンが2つありました。いずれも綺麗だなとか可愛いなとか思っていたのですが、自分を代表させるものとしては受け入れがたく、泣く泣くお蔵入りしました。

3個目に作ったのが上にあげた子なのですが、これについては妙な納得感があります。たれた目元とあっけらかんとしながら憂いをわずかに翳らせた表情は、シンデレラガールズで今でも大好きな喜多見柚を彷彿とさせます。(というか思い切って好きなものを詰め込もうというコンセプトで3人目を試行錯誤していたので、寄ってることを楽しんでいた節はありました)。そういえばオレンジ色のパーカーなんかもそうですね。指摘しやすく好みが反映されていることになります。ですが、別に柚に似たキャラクターを作りたかったわけではなく寄っていったので、僕が個人的にあのアイコンに感じる納得感は、もっと源流の方から自分の好みが表れているような納得感という風に思います。

 

しかし、自分を詰め込んだ手応えはある一方で、自分と同一視できるかというと抵抗があります。同一視というかこのアイコンで発言できるかと言われると無理だなという感じです。自分でありながら自分でないというこの状況なんなんだろうなと思いながら気づいたんですが、明らかに昔好きだった女の子を投影しているんですよね。

小学生の頃に好きだった子で、僕が中高一貫の男子校に行ったせいでずっと好きなままだった子です。男子校時代は女の子ってニホンオオカミより希少な存在だったので、僕はもう好きというより崇めるくらいの勢いで、その子を偶像のように大切に自分の一部にしていたわけです。もはや本人とは別の人間を好きになってることに気づいたのはだいぶ経ってからです。その頃には僕の核心部にその子のための場所ができていて自分ではない自分の一部みたいな特別な存在となっていました。

憧れであると同時に自分を構成するもの(の源泉)みたいなこの存在感が、見事にアイコンにあらわれました。その子もたれ目でしたし、おふざけできる性格だけれども低めな声のせいか落ち着いた雰囲気をどこかに感じさせる子でした(こう書いてるといまだにトキめくので余程ですね……)

自分をシンボリックに表現したいと思ったことは何度もあったんですが、結局はその子(自分の中に鎮座ましますその子)を再生し続けているような気もします。別にそれが悪いことだとは思ってないというか、その子を大切に思うことで今の自分が出来上がっていることはけっこう肯定的に受け入れています。

なので、なんというか、改めて自分にとってその子の存在は大きかったんだなぁということを思い知らされましたという話です。