他の可能性に思いを馳せること

ストレイライトの次回イベントコミュ予告が発表されました。

タイトルは『if (!Straylight)』とのことで、幾通りにもストレイらしいタイトルです。ひとつには思い出アピール演出にしばしば使われるプログラミングの文法が使われている点です。「!」は否定を表すそうで、誰それ(返り値?)がストレイライトではなかった場合と分岐していく雰囲気があります。

また、単純に「もし〜なら/〜でなかったら」という仮定についてもストレイと親和性の高さを感じます。偽物と本物とを比べてきた経緯もありますし、それ以前から「冬優子とふゆ」や「あの子と愛依」のように、ともすれば本当の自分を隠す仮面のようにも理解されそうな(実際はもっと複雑で繊細)自分のあり方をめぐっての様々がありました。

「本物と偽物」や「真実と虚構」のような「リアルとそれに劣るもの」とでも言い換えられそうな二元性と向き合ってきたストレイライトであればこそ「実現している現実とifの世界」という対立はうまくハマるのであろうと思います。

で、ここからが本題と言いますか、沈思黙考できない長文ツイートなのですが、それがなんで大事なのだろうという話が気になっています。あらかじめ言い訳をしておきたいのは、僕は書きながらじゃないとうまく考えられないから、そういう場所としてここを用意しているという経緯があるため、正確な出典や説得性のある議論は保証できませんということです。気付き次第、修正はいれたいですが、それほど丹念なものとなるかは微妙です。要するに話半分に読み流してもらえれば十分に命を全うするレベルの文章ということです。

 

さて、可能性に思いを馳せ、そしておそらくは他のあり得た世界について肯定することになるという話になりそうですが、それがどうして大事な話なのかはイマイチ腑に落ちていないです。少なくともよくわからないなりに引っかかりを覚えます。

可能性と言ったときに、大きくプラスマイナスで二方向考えることになるのかなと思います。「あのとき声をかけていれば、今あの人と仲良くなれていたかもしれないのに」「あのときもっと勉強していれば違う選択ができていただろうに」と現状よりも良い状態があり得たことを思うパターンがひとつです。基本的には後悔のかたちをとりそうです。次に、「あのとき一本遅い電車に乗っていたら事故に巻き込まれていたかもしれない」「受験で失敗していたら今頃もっとつまらない人生を送っていたかもしれない」というパターンを思いつきます。

他の可能性を尊重することが大切になるとすれば、僕は後者なら納得しますが、前者はうまくいくのだろうかという手応えです。

 

納得のいく後者からまとめてみます。

後者に関しては現在の自分のあり方を肯定する結果となっていて、あたかも自己肯定感の高い良さげな内省に見えますが、そこでは自分よりしょうもない人生を送っている人を下に見るという事態が発生しており、そうならなくてよかったという安堵が混入しています。これが傷になる場合はまぁまぁあるだろうと思います。たとえば仕事にやりがいを見出して成長を実感しながらブイブイ言わせている人が若者にエールを送るとき、駅のトイレ掃除をしている人やコンビニ店長をしている中年などは人生の失敗例として暗に思っていそうです。かなり雑な例ですが……。

しかし、うまく言えないんですが、人生の成功を目指すような思考において、社会を動かすには必要な仕事をしている人を「ハズレを引いた可哀想な人」のように捉えることは免れないように思ってしまいます。誰かを見たときに、何かが罷り間違っていれば自分がそうであったかもしれないと怯えたとしたら、その怯えは相手を見下していることの証拠でしょう。だとすれば、自分がそうであり得た可能性を肯定することは他人との関係において重要な努力であるように思います。そしてそのことは、自分の地位を失うかもしれないことへの恐怖をいくらか和らげてくれるようにも思います。

 

他方、同じことが前者、すなわち後悔するようにして思い浮かべる別の可能性にも当てはまるとは言えなそうです。

そこで思い描かれる自分の姿は、今のこの自分よりも良い姿をしていて、この場合はむしろそちらを肯定しすぎてしまっていることが問題となりましょう。「本当だったら今頃は……」的な方向へと進んでしまうのは、まぁ道を間違えていると言えるはずです。だとすると、他にありえた可能性を尊重するのが良い行いであるためには、第一に今の自分をよく肯定していることが前提としてなくてはいけないように思えます。

だから要するに、自分の今の姿を肯定していてそのことが他にあり得た可能性も否定することがない、くらいならば納得がいきます。そうするとYOUR/MY Love letter にあったような無数の人々への目配せとも話がつながっていきます。

 

しかしそんなもんで済ませていいのか?というのも気になります。

まだ予告が出た段階なのでとやかく言うこともできないのですが、気になっているのが「別の世界の自分」をあいだに挟む必要がないという点です。たぶん。

他人を肯定するために「もしかしたら自分が駅のトイレ掃除の人だったかもしれない」と一旦思うのは不気味ですし、そうだった場合の自分を肯定することが自分にとって何になるのかがよくわからないということです。もしかしたら、先ほどはやんわり話を終えた別の理想的な可能性の方が尊重されるべきものなのでしょうか。「もし自分が弁護士として働いていたとしても自分は幸せだったろう」というような。しかしこれがどういう意味を持つのかは依然として不明です。

一箇だけ、疑問を提示しつつも仮説を提供できそうです。

疑問というのは、自分が殺人を犯す可能性までは肯定できるのかというものです。これはまずできないでしょう。いかなのっぴきならない理由があったとしても殺人という結果に至ってしまっている状況がそもそも肯定できません。とすれば、あらゆる可能性を肯定するというのは揚げ足取りになっていて、肯定してあげたい可能性の範囲があるということです。今からコンビニに行って商品を盗むついでにガラスをぶち壊すことも原理的に可能ですが、そんなことはまず起こり得ません。なぜなら自分はそんなことをする人間ではないからです。一方で、これからコンビニに行って欲張り夜更かしお菓子セットを買って家でこっそり食べる可能性はわりとあります。今日やらなくても明日はやるかもです。今日はその代わりに冷房の効いた部屋で壱百万天原サロメさんの動画を見るかもしれません。どちらの選択をしても幸せである、というような考え方の延長でいくのはどうでしょうか。

つまり、自分があのとき別の選択をしていたとしたら、今あるような人間になっているかもしれない。そういう自分もきっと(今の自分と同じく)素敵だろう。そういう見方です。この場合に、何がポイントになってきたかと言うと、自分が行いうることとして可能性を捉えている点で、(現在の?)自分への信頼が出発点になっているということです。だから、あのときああしていれば的な後悔は問題になってこないし、むしろ楽しい妄想くらいになってきます。

そういう読み方ができるのですが、この場合はトイレ掃除をしていたかもしれない自分というのは入ってこなさそうなのが気になります。あくまでこの自分が成し得ることに限られ、先ほどYOUR/MYにひっかけて無数の人々へのつながりを見出した道筋は消えてしまいます。加えて、そもそも自分への信頼が出発点になっているのだとしたら、やはり「ありえたかもしれない自分」をあいだに挟む意味がよくわからなくなります。自分への信頼のあらわれでしかないというか…………

(再三トイレ掃除の仕事を例にしてますが、これを例に挙げているのは、この仕事を週5でやることに生きがいを見出せる気がしないが、誰かがやらねばならないことであるというのがポイントのつもりです。掃除はわりと好きな方ですが週5はだるいですし、勉強してきたことが全く活きないのも虚しいので仕事にはしたくないのですが、かといって勉強してこなくてもできることが従業者を見下しているみたいで嫌というもどかしさがあります)

 

 

結局のところ、僕がいろいろ掴みかねているのは、別の世界の自分というもののリアリティが自分にはないからかもしれません。それはまぁモラトリアム期間延長しまくっているのが裏目に出てるのか、まだ社会の中で何者かになっていない人間なので、実感が薄いのではないかという気がしてきました。自分はこういう人間ですと世の中に出て行ったあとにようやく、自分の選ばなかった選択のことがひしひしとリアリティを持ちはじめるのかもしれないと思いつきました。とすれば(それが仮面であったとしても)堂々と自分を掲げてきたストレイライトがifを主題的に取り扱うのは妙な納得感があります。

 

ちょっと今すごく眠いので投稿はしますが、意味わかんないこと言ってたら明日には消してるかもです。