犠牲と責任

2022年7月8日、安倍元首相が銃撃され死亡した。この記事は安倍さんの死を発端としているが、彼を悼むものでもなければ、生前の仕事を批判するものでもない。彼の死が犠牲だと感じたことが動機となっている。二点ほどあらかじめ言っておきたい。一つはあの事件そのものが議論の焦点とはなっていないということで、もう一つは犠牲という言葉を徹頭徹尾悪い意味で使っているということだ。後者については説明が必要なことではあるが、まさに犠牲をめぐるものが本稿の主題の一つだ。それから、カタイ文章を用意しておいて言い逃れをするようなのだが、このブログは他人に読まれるという程で文章を書くことで今後洗練させていく思考を用意するための場所として運用しているため、ここで出すものは生煮えの思考となることも合わせてご容赦いただきたい。要するに自分でも100%自信を持っているわけではないのだが、この方向性で考えを進めることの意義は大きいだろうというつもりではいるため、読むに値するものであろうとはしていることは言い添えておく。

 

銃殺事件

考えを進める発端となったのが銃殺事件であるから、記事としてもそこから始めたい。当日の報道を振り返ってみれば、犯人の主張は支離滅裂と言われていた。しかし同時に統一教会への恨みを確固として持っており、自作で銃を用意するくらいの能力があったことから、頭のおかしい人と見る向きは最初からそれほど強くなかったように思える。実際、統一教会の内情が明らかになるにつれ、うっかり山上容疑者に同情したくなるほどに教会内部の黒さに嫌気が差す。

もし安倍さんを殺すことなく教会についての暴露がなされていたなら……と思わざるを得ない。しかし実際問題として、あのような派手な出来事なくして統一教会の内情を暴露することなどあり得たのだろうか。筆者はこの点に関してかなり懐疑的だ。だからと言ってもちろん暗殺やテロを推奨するつもりはない。問題としているのは要するに、そのような仕方でしか問うべきものを表舞台に立たせられないほどに日本社会は未熟なものであり、そのような体制をなんとかしない限りはいつまでもテロが最も効率よく主張を通せる手段であり続けることになってしまわないか、ということだ。

当日のツイッターを見て、「暴力に頼ってはいけない」「暴力に訴えることは民主主義の終わりだ。投票に行け」といった啓蒙的な言説が政治家でない国民から挙げられていた。内容自体はそうとして、この一連の動きには少々盲目的なものを感じた。このような印象を受けたのは、まさにそうした言説が前提としている「民主主義の原則が守られれば暴力によらず社会悪を排除できる」ということを疑問視しているからだ。自分の生まれるよりかなり前からある仕組みが浸透していない時点で本当に信じるに足るものなのか疑問に思ってしまう。ポピュリズムに弱すぎる点は不安を覚えざるを得ず、独裁制をはじめ歴史上試されてきた諸制度よりはマシというくらいのところが個人的評価だ。

そしてまた、どういうルートを辿れば統一教会の告発が可能となりうるのかの検討がつかないことも不信感を煽る。思い出すのは数年前に話題になったジャーナリストの清水潔氏による『殺人犯はそこにいる』という著作だ。北関東連続幼女誘拐殺人事件をめぐって、冤罪を言い渡されたとしか思えない状況のまま長らく服役していた人物への入念な取材をはじめ周辺事情を洗うことで、警察・検察の杜撰さを暴いた本だ。この件に関しては、ものすごい労力と時間をかけてようやく冤罪を確定させたのだが、一方でほぼ特定されている真犯人の逮捕には至っていない。そして指摘しなくてはいけないのは、世論の声では事態がほとんど進展していないことだ。冤罪を晴らしたのは著者の執念によるものだし、文庫版のあとがきでも事件の全容を知ってもらうべく積極的にテレビやラジオにも出演して反響もあったにもかかわらず「肝心の事件自体は動かなかった」と清水は述べる。世論に訴え関心を集めたところで、進展をどれほど期待していいのかは疑問が大きい。もちろん世論が社会を変えることはあるとしても、その背後には多大な労力をかけて活動を続けた人々がいる場合ばかり思い浮かんでしまう。そういった立役者の労力抜きに世の中が変わるというのは、個人的にあまり地に足ついた考えとは思えず、銃殺事件後の「選挙にいって自分の主張を表明せよ」という呼びかけには主張の正当性に隠れた無邪気さを感じてしまう。

そうした声を改めて省みると、コロナ対策でのお願いベースな政策に近しいものがあるようにも思う。社会全体の目標を達成するために全員が一人一人で正常な判断をすることに託すという意味では同じ構造だろう。個々人がしっかり考えて行動できることは理想であれ、それを前提としてしまってはならないし、システムの改善をおろそかにする言い訳にはならない。問題としたいのは一人一人の行動よりも、システム──テロが依然として有効になってしまっている──の未熟さだ。そしてそれは高橋哲哉の言うところの犠牲のシステムであることが問題の構造である、というのが筆者の見立てだ。しかしシステムを問題視することは同時に、そのシステムの恩恵を受けている我々自身への批判も免れない。本来ならば犠牲のシステムによらない社会運営の仕方が検討されるべき場面であろうが、筆者の力量では実りのないアイデアを出すにとどまる。代わりにこれから行うのは、不本意であろうとも犠牲のシステムに依拠して生きる自分(たち)自身への問いただしである。

 

 

犠牲

その前に犠牲とは何かを確認せねばならない。端的には、公共の利益のために特定の個人や集団に一方的に不利益を背負わせることが犠牲と言われるだろう。これはあくまで筆者個人の感触を言葉にしただけなのだが、それゆえ安倍さんの死を犠牲と感じた理由を説明するものではある。元首相の死というセンセーショナルさが事件の真相解明への期待が圧力と言っていいほどになり、(もうこう言っていいと思うのだが)社会的な害悪であるカルト集団の隠されてきた内情をある程度明らかにできたのだとすれば、公共の利益のために安倍さんの命が犠牲となってしまったという構図になっているとは言えよう。

犠牲であるとみなせることについて、徹頭徹尾悪い意味で用いていると冒頭で述べておいた理由の一つ目が「犠牲になってしまった」と言うことで生む語弊にかかわる。端的に言えば、犠牲となった者が問答無用で無垢な人物として受け入れられてしまいやすいことが問題となる。なるほど犠牲になったことがらについてについて、犠牲者は往々にして一方的かつ不条理に不利益を被る。受けた被害について正当な理由は存在せず、犠牲を罰とみなすならば対応する罪は存在しない(とはいえ安倍さんと統一教会とのつながりに限れば両者は全く無関係とは言えない。死をもって償うのは行き過ぎにしても、けじめをつける必要はあったという見方もできるとしても、現段階では両者の関係は明瞭になっていないところが多く本題からも逸れるため、この点に関しては言及を避ける)。しかしたとえ受けた犠牲に見合う罪がなかったとしても、当然ながらそれ以外の点に関して無垢であったかについては話が別だ。死を悼むことが生前犯した罪を棚上げにすることであってはならず、安倍さんの功績ばかりが取り沙汰されて批判については不謹慎とされる非対称性には、少なからぬ危うさを感じる。とはいえあくまで個人的な観測範囲では、そのような死者を立てるような動きはそれほどなく(国葬とかいうものがあるが……)むしろ同様に危惧する声を聞くことの方が多い印象だ。選挙を控えた当時に同情票が集まることを懸念する声*1や、裁くのであれば暴力によってではなく民主主義によるべきだとの声などがあった。

 

 

以上の懸念に同意したところで、犠牲という語を悪い意味で用いているということの別の側面に移りたい。そして実はこれが本題としたい話で、敢えて犠牲などという仰々しい単語を持ち出したことにも関わる。先に述べたように筆者は、犠牲に依らないとまともに社会的不正義を是正することもできないほど社会が未熟なのではないかという懸念を抱えており、安倍さんの死によって社会が動いているのを見て、またしても犠牲に頼ってしまっていると思い至った。犠牲というのはふと思った言葉ではあるが、関連して思い出したものが二つある。一つはルネ・ジラールによる『暴力と聖なるもの』で、一つは高橋哲哉による一連の著作だ。回りくどくなってしまうが順にみていく。

ジラールの方は犠牲の暴力性を人類学・社会学的にアプローチした研究で、犠牲とは身代わりによる隠蔽的・偽装的な暴力のことであるとする一貫した主張をしている。隠蔽と言っても口封じ的に殺すことではなく、たとえば共通の敵を作ることによって対立関係にある人々の争いが鎮められる(敵対関係が隠蔽される)ような場面を想定する方が理解として正しい。そこで平穏という利益を獲得するのは、対立する人々を包含する共同体であり、本来なら暴力の対象ではない第三者が共同体から排除される。共同体維持のための犠牲となるわけだ。ジラールの調査研究によれば、犠牲はひいては生贄を捧げる儀礼として神聖なものの仮面をかぶって恒常的に行われるようになり「なるほど暴力的ではあるがそれはもっと悪い暴力に対する防波堤としての暴力なのである」といった理屈で正当化される。社会のなかで神聖とされるものが犠牲の暴力性と不可分であることをジラールは暴く。

しかし犠牲の特徴として指摘されるポイントがより酷い暴力への抑止であるとすれば、少々限定的になりそうだ。銃撃事件に擬えれば、安倍さんが死ぬことによって統一教会による被害が抑えられるかというと怪しい*2し、事の本質はそこにないように思われる。この事件で(はなはだ不本意な言い方だが)功績と言えるのは、統一教会の内情を暴いたということだが、言ってしまえば事態の進展のための最初の一歩を踏み出せたくらいに過ぎない。健全な社会ならばそれくらいのことは事件になる前に明らかになっていただろう。ジラールが批判したような「より悪い暴力への防波堤」という言い逃れすらできない初歩的なことだ。現代日本で犠牲を考えるならば、社会の内部分裂を隠し安定的に運営するという側面だけではなく、大多数の人間が一部の人間の不利益の代償によって得る利益にも関わっているように思えてしまう。そしてまさしく日本が(もっと言えば世界が)犠牲の論理のもとで成立していることを批判し続けているのが二人目に挙げる高橋哲哉だ。

『犠牲のシステム 福島・沖縄』という著作では、タイトルの通り福島の原発と沖縄の米軍基地から「犠牲の論理」を読み解いている。福島の原発事故は原発には重大なリスクがあることを誰の目にも明らかなものにしたが、それ以上に暴かれるべきであることは、そのリスクを周辺地域の住民に一方的に負わせてきたという事実である。筆者のように都市部に住む人間は地方に住む少数の人々にリスクを押し付けるかたちで電力を享受していたのである。ここに高橋は犠牲の論理を見る。自分が使う電力に関わるリスクを他の人が負うという犠牲が働いているというわけだ。著作中でもう一つ主題的に挙げられるのは沖縄の米軍基地で、これもまた沖縄に住む人にコスト・リスクを押し付けていることが指摘される。米軍との関係は友好的とは言い難く、訓練中の事故の被害が居住地に及んだり、米軍人による犯罪が裁かれないままにされたりといったことは度々問題になるし、そもそも基地を作るために居住地や環境が破壊されているのだ。そうした問題が生活に関わるのは、ひとえに沖縄住民のみである。ある種の論者が、日本の安全保障のためには米軍基地が必要なのだとして正当化するときには特に、近隣住民が危険を負う代わりに、自らの安全が保障されているという犠牲の論理を展開していることを指摘できる。

高橋が取り上げる二つの例は犠牲の論理が目立って露呈した事例に過ぎない。筆者としては安倍さんの死もまた犠牲の論理だと考える。センセーショナルな事件を経てようやく統一教会に手入れが可能になるという事態のなかで安倍さんは犠牲者であるのだが、この犠牲が必要であったはずがない。犠牲をここに見出すなかで思うのは、犠牲という強硬手段なくしてはまともに動かせないほどに社会が未熟なままなのだろうということだ。犠牲によって成り立つ社会システムはおそらく嫌になるほど多い。

しかし原発の例で考えてみたいのだが、責任があるのは一体誰なのだろうか? 原発設置を決定した人物や組織に責任があることは間違いない。彼らが一番なんとかできる立場であり、なんとかしなくてはいけない人々だ。その意味では重大な責任があるし、その責任を放置して私利を得ている(いわゆる原発ムラに属している)なら、責任というよりは罪として断罪しなくてはならない。しかし他方で我々もまた無垢とは言えない。都市部に住み原発の恩恵を受けていた筆者のような人間は、意図していようとなかろうと犠牲のシステムの上で安住していたことには違いない。

筆者は複雑な思いを抱えつつも原発に反対しているのだが、それを被害者の立場からや被災者に寄り添って主張することには気持ち悪さがある。犠牲の恩恵を受けていたということを踏まえると、たしかに自分にも責任があるはずなのだが責任を果たすように東京電力を非難するときに、自分の責任が希薄化しているように思う。結局誰かが現状を変えてくれることに頼るのみで、自分自身が主動的にならないのだとしたら、ある種の無責任であるように感じてしまう。丸山眞男の言う「無責任の体系」は、まさしく誰も自分が決定しないままに誰かに委ね、なし崩し的に戦争を始めたことを批判したものだが、まさにそのような結局は誰かに決定権を委ねるという無責任さが依然としてはびこっている。とはいえ決定する立場にない人間には何をすることもできず、せいぜい批判し訴えることくらいしか責任を果たすためにできることがないという見方もできる。おそらくそこに落ち着くしかないのだが、それもまた厄介な問題を含む。一つ思い浮かぶのは、上の立場を目指さないで無力な人間でいる方が安全であるというジレンマが発生しそうであるということで、一億総クレーマー社会などと言われることにも関係するだろう。しかしこれは深掘りできていない思いつきに過ぎない。もう一つ思うことは、原発だけでなく我々の生活を支える無数のことが犠牲の上に成り立っており、批判し訴えることが責任を果たすことだとしたら、自分が踏みつけにしているもの全てに対して責任を果たすのが実質的に不可能になるということだ。この記事で関心を向けているのはこちらのことになる。

 

 

犠牲のシステムに生きる者の責任

少し先走ったので改めて問題を確認したい。原発反対の運動をする中で(個人的にはそれに賛同しているのだが)、その運動をする者が完全に被害者として振る舞うのだとしたら、自分自身の責任が希薄化されているように思う。そのことを気にしていた。実際のところ、どれほどの割合で「被害者ぶって」活動しているのかは分からないし、筆者が過敏に反応しているだけなのかもしれないのだが、過敏な反応をしている人は一定数いると感じている。

これも個人的な印象でしかないのだが、原発へ積極的に反対する運動に対して冷ややかな目を向けるときに念頭にあるのは批判者が強い立場にあるように見えてしまうことである場合がありそうだ。つまり「相手を悪として糾弾することで自分を正義の側に置こうとしているのではないか」「被害者ぶっているが、お前も原発の電力を使っていたのだから同罪だろう」とでも言うような反発があるように思えるのだ。こうした反発を正当化するつもりはないのだが、共感してしまうところが正直ある。というのは先に述べたように、批判することが批判者の責任を覆い隠すならば、それは批判として不当であろうと感じるからだ。しかし他方で同罪だから批判すべきではないという主張が成り立たないことも承知している。そのうえで上のトンチンカンなはずの反論に共感してしまうのは、責任概念をめぐる混乱があるからではないかと考えた。

混乱を解くためには我々の責任と原発関係者の責任とは別物であるということについて整理が必要だろう。両者はともに責任を負っているが、同じ責任を負っていないのではないかということを考えている。我々が責任ある者でありながら、他者の責任を追及することが真っ当なものとして受け入れられるためには、むしろ我々の責任がクリアになる必要があるのではないだろうか。

 

実際、責任という概念は意外なほど曖昧で、哲学の概念としては明確な起源がないことがたびたび指摘される。たとえばハンス・ヨナスなどはそれを踏まえて未来世代への責任が問われてこなかったことを問題視し*3ポール・リクールは法律上の意味を越えて責任概念が氾濫している*4と述べる。責任と言うと分かったような気になってしまうが、実際のところ地盤がゆるく、ひどく不確定な議論をせざるを得なくなってしまう。だとすれば、まずはどの意味で責任を問いたいのかを明確にすべきだというのが彼らの議論に共通するところだろう。

とは言っても我々の負う責任が一体なんなのかを明らかにするのは難しい。足がかりとして、原発で言えば組織の人間の負っている人間の責任とは別であろうことを確かめてみたい。我々には被災地の住民や現在稼働している原発の周辺住民への保障などは不可能だ。さらに、現実的な問題として東京電力の人間でもなければ原発を停止させるための努力には多大な労力がかかることがほとんどだ。原発も3.11の事故があってようやく活発に議論されたのだし、統一教会についても積極的に批判してきた人たちがいたにもかかわらず事件を経てようやく事態が進行している。北関東連続幼女誘拐殺人事件での冤罪が晴れたことに関しては、清水潔という人間の努力によって成し遂げられたものではあるが、超長期間にわたる労力がかけられていることは違いない。要するに事態の進展が「尊い犠牲」が生じる事故事件に頼らず努力によってなされることはあれど、それには多大な労力がかかるという状況にある。

こうしたことを踏まえると責任ある事態に対して解決のための努力をすること(原発問題ならば原発の停止への働きかけなど)が「我々の責任を果たす」こととイコールであるのかは微妙に思う。厄介な理由として挙げられるのは(ありがちだが重要な議論ではあるが)原発を止めるなら何を使えばいいのかという問題が発生することで、火力発電に頼ったときには新たに環境負荷を高めたり未来世代に解決を押し付けたりという事態が発生してしまう。これは犠牲のシステムによって現在我々が電力を利用していることに変わりなく、犠牲の先が見えにくくなっただけとも言える。大気中の温室効果ガスを増やして最初に割りを食うのは発展途上国と言われることもしばしばあり、原発を停止するための努力が別の犠牲を発生させてしまう。ここで発生しているのは原発のリスクを押し付けることと化石燃料の利用に伴う負荷を地理的・時間的に遠い誰かに押し付けることとの兼ね合いで、それぞれに対する責任は犠牲に対するものとしては同じ水準にある。

なお悪いことに我々が犠牲のシステムから恩恵を受け取っている事態は電力問題に尽きない。格安の商品を買う時には商品の向こう側に不当に賃金を買い叩かれた労働者がおり、エビを食べる時には養殖のために伐採されたマングローブ林があり*5、われわれの生活を支えるために数えきれないほどの犠牲がある。ひとつひとつの解決に複雑で多大な労力がかかる以上それら全てに解決の努力を向けるのが極めて困難であるし、それどころか自分が犠牲にしているものを漏らさず把握することすら不可能だろう。

我々は多くの犠牲のもとに生きており、その事実に向き合うならば生きてるだけで偉いなどと述べることはあまりにも無邪気に思われる。犠牲にしているものは無数にあり、それらに対する果たすことなど到底できない責任を無数に負っている。だからと言って、罪のように責任を背負い鬱々と日々を過ごすことが正しい生き方であろうはずもない。しかしこの必然的な葛藤は、責任ある事態に対して解決のための努力をすることを責任を果たすことと同一視することで生じたものであることを想起しなくてはならない。しかるべき葛藤の結節点にある責任の概念を問い直すことが必要だろう。

 

しかし問うべきポイントを明らかにしたところで、筆者としても明確な回答を用意できるわけではない。それでも何もアイデアがないわけではなく、ここまで密かに前提してきたことを切り離すことがヒントになるのではないかと考えている。前提としていたのは、責任を何かの行為に紐づけられるものとみなすことと、何かを果たすことで償いが可能であることである。たとえば自動車事故を起こした責任があるといったときに、もたらした損害分を弁償することで責任が果たされる。この時の責任は具体的な出来事(事故)や行為(運転)に向けて帰せられるものであり、別の行為(賠償金支払い)によって代償することができる。このような単純な事例でも責任は明確なものでもない──たとえば意図的であるかや避け得たかとどうかなどで事情が変わる──のだが、これまでの議論ではこうした責任の考え方を知らず知らずに犠牲のシステムに乗っかって発生させている責任にも当てはめてきた。使っている電気は原発地域に住んでいる人々の犠牲を強いているものだから、原発を停止させることで代償すべき、といった風にだ。しかしこの責任理解を採用すると何もできなくなってしまうだろう。自分の買ったものが労働者の賃金を踏みつけにしているかもしれないし、誰かに対する不当な扱いに加担しているかもしれないし、どこかの環境を破壊することで生産されたものであるかもしれない、となるとそれを避けるために一切の生活ができなくなってしまう。ひいては、どうせ何をしたところで責任が発生してしまい、補償することもできないのだから、もはや何も考えずに過ごすことと変わりないという方向へと向かわせうるものでもある。

実は先に引いたリクールはまさにこのことを指摘しており、帰責可能なものの範囲を定めることを説いていた。筆者としては問題意識は共有しつつも、その責任概念を別の仕方で理解することが可能なのではないかと考えている。犠牲のシステムに乗っかっていることによる責任を「果たすことのできる責任」ではなく「果たし得ない責任」として認められないだろうか。ある行為によって発生した問題に対して弁償をすることによって精算されることはなく、弁償によって解消されない(にもかかわらず償うべく自らを動かす)罪の自覚が責任であるというものだ。もちろんかなり自虐的で過剰な責任論であることには違いがない。しかし、たとえば次のような場面を想定してみてはどうだろうか。どう考えても自分が悪い自動車事故を起こしてしまい、法的に定められた弁償金をきっちり支払ったとする。そのときに法律上は完全に終息したとしても、被害者が自分のことをなおも恨んでいるにもかかわらず、弁償が済んだのだから恨まれる謂れはないと言ってのけるのは、やはり無責任な態度に感じるだろう。要するに金さえ支払えればチャラになるといった極端な考えの持ち主がいるとしたら、的外れな理解をしているとみなされると思うのだが、その「的外れな感じ」は賠償によっては償いきれないものがあることを示しているように思う。法的に定められた賠償責任は私的制裁を不当なものにするための仕組みといったものであり、責任概念を説明し尽くすわけではない。犠牲のシステムにかかる責任について提案した「果たし得ない」という性格は、しかし普通に使われている意味での責任にも当てはまるものではあるだろう。

責任を果たして解消すべきものではなく、果たしきることができないにもかかわらず応えなくてはならないものであると見るのが差し当たって提示しておく責任概念だ。これによって示される見方とは、為した事柄によらず意図的か否かによらず望むと望まざるとによらず既に常に責任ある者として自分が存在しているということだ。先に架空の論敵に「自分も同罪だろう」と言わせながら、正義の側に立っていることで批判者が自らの責任を希薄化させることへの嫌悪感を示し、責任ある者が他者を責めることが無矛盾に成り立つかと疑問を呈しておいた。そのときに共感していた希薄化させてはならない責任は、本稿の解釈では残ったままであるし、その責任に応えるひとつのあり方が犠牲のシステムに乗っかって受け取っている恩恵に対して関心を持ち行動を起こすことでもある、という整理によって両立することが言えたと思っている。事態に深く関係する者を追及することも必要だし、批判に酔って自分が無垢だと信じることも許されない。(無責任の体系に見たような)さらには批判することで誰かに託すことはしても自分が積極的な決定を避けるという態度も無責任なものとして取り扱うことができるだろう。

 

このような責任概念は法的には適用できるものではないが、責任という語の用法をめぐっての混乱を解消させることには役立つと見込んでいる。とはいえやはり過剰な責任であることは懸念としてある。「今日は特に生産的なことはできなかったけど片付けは少ししたから偉い」というような自己肯定感を高めるやりとりが見られるのは、何もできなかった罪悪感を解消させるためのものだと理解しているのだが、ここで提示した責任概念はまさにその罪悪感を突くものである。それに加えて、知らず知らず犠牲のシステムに乗っかって受け取っている恩恵のそれぞれについて責任があるとみなすのは、人間の負荷を超えるのではないだろうか。最後にこの点に関して、自分なりの考えを示しておきたい。
まず改めて言わねばならないのは実際この責任は厳しいものであり、真正面から向き合うと人は病む。逆にこのようなルートで病んだ人間に対して、生きてるだけでえらいなどと言うことは持っている責任をすべて手放してしまいなさいと言っているようなもので信用ならないものと映るだろう。生きてるだけでえらいという自己防衛を成功させるためには、責任と両立させることが肝要なのだろう。そのような課題を設定したうえで、ひとつフォローしておきたい。責任から「果たすことができる」という特徴を切り離したことが効いてくるのだが、責任があると言っても事態の解決という途方もないことが要求されているわけではないということになる。かといって何もしなくていいというわけでもない。煙に巻いているようで恐縮だが、強いて言えば責任ある者として生きることが要求されているのであり、その表れが原発反対運動であったり執念深い取材を通して冤罪を認めさせることであったりするのだと考えている。とはいえやはり厳しい要求であることに違いはないのだが、おそらく責任あるものとして生きるべしという要求が幸福を享受することはない。たとえば環境負荷の低いエシカルな商品を積極的に選ぶなど、誰かが責任に応えようとする努力に乗っかることで、自分の責任を果たしながら享受する生活は責任と幸福とが両立できるもののように思う。たとえ過剰な責任であっても、それを手放さないままに幸福に生きる道はあるだろうし、そうしたことが必要になってくるとも思うのだが、しかし気楽な話ではないことには違いない。

*1:小出裕章氏が事件直後に出した声明などはこうした態度であろうし、正当なものと感じる  https://www.go.tvm.ne.jp/~koide/Hiroaki/remark/%E3%82%A2%E3%83%99%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E6%AD%BB.pdf

*2:

実際、むしろ政界の大物と関係があったことが権威づけに利用されるという懸念を表明する向きもある。少なくとも統一教会への抑止力になることを断言できる段階にない。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71101

*3:『責任という原理:科学技術文明のための倫理学の試み』ハンス・ヨナス, 2000, 加藤尚武訳, 東信堂

*4:

Le concept de responsabilité: Essai d'analyse sémantique

, Paul Ricœr, 1994, Esprit , Novembre 1994, No. 206 (11), pp. 28-48

*5:エビに関しては少し古い情報ではある。本記事は最終的に、それぞれが責任に応えようとするものに乗っかることが妥協点なのではないか、というありきたりなところに落ち着くのだが、エビに関して言えば、ニチレイがこの問題に取り組みながら取り扱っている事例などが出てくる。

https://www.nichireifresh.co.jp/inochinomori/