日記 #283をひろげよう のこと

すこし旬は過ぎてしまいましたが、前回のイベコミュ『#283をひろげよう』でツイッターと連動した企画がありました。

あれ、何だったんだろうと気になってます。

 

疑問の中身は思い浮かぶかぎり二つあって、一つは何がしかの決意表明のようにも思えたが、だとしたら何を表明しているのかというもの。もう一つは現実との接続に積極的になるというのがどういうことなのかというもの。

 

決意表明について。

たとえば『ストーリー・ストーリー』の前後のイベントで現実の不条理への抵抗のようなものを感じます。社会に順応するためには諦めなくてはいけないことが多々あって、不本意であってもその不本意さごと受け入れることを俗に「大人になる」と言ったりすると思います。正直、個人的にはそんなん全然納得いかないのですが、「大人」になってしまった人々を見下すわけにもいかないのは、そういう社会の潮流に抵抗することの方がよほど困難だともわかっているからです。命を保存し続けることがこんなにも容易になっている社会で、社会人としての我々の命は常に脅かされている変なことが、悲しくも現実と思います。現実であるがゆえに不条理とも言われるのだと思いますが……

様々なかたちで押し寄せる現実に対して、それでもアイドルひとりひとりを大切にすることを諦めたくないという信念が『ストーリー・ストーリー』の前後で貫通していたように思います。

 

翌周では一転、雰囲気が変わっていました。僕が感心させられたところですが、それまでのイベコミュは、それ単体で取り出せばバッドエンドを逆転劇で終わらせる話です。その手の話は、言ってしまえば別に珍しいものでもありません。難しいのは、その後を描くことです。たとえば映画でいい感じに結末を迎えたとしても、映画の登場人物たちに待ち受けているのは果てしない日常で、結末を経て続く日常が(本人にとって)面白味のないものであれば、映画の結末は大事なところをごまかしていい感じにしているに過ぎないものではないかと思ってしまいます。

スッキリした落とし所としての結末を超えた先で再び待ち受けている日常こそが大切にされていないと、人生は簡単に終わってくれないので、僕としては納得いかないわけです。(何というか、人生を描くものとして物語を見る以上は、そういう目線を抜きに気軽に消費したくない気持ちでいます。)

これに対して、シャニマスが『流れ星が消えるまでのジャーニー』のような日常の範囲内で丁寧に優しく描写してくれるイベコミュを作ってくれたことを心底喜びました。『明るい部屋』も大きめの爆弾はあったものの、アイドルたちの日常に目を向けてみれば「そんな日々を過ごしてくれていて嬉しい」くらいの感想は自然に出てきます。

苦難のコミュを経て、その後の日々を幸福に描いてくれるのがある種のテーマのようにも思ったりしていました。

 

別にかっちりはしてないと思いますが、テーマみたいなものがあるような気がしています。

なんとなくの印象ですが、 #283をひろげよう でも、長期スパンで見ても一貫した何かがあるように思えてきます。twitterとの連携という点で見ても、SHHisが1日使ったり、夏の終わり頃にはノクチルが使ったりしていて、以前からも似たような企画はありましたが確実に頻度が増えています。のみならず、前回のノクチルによる占拠では雛菜によるQ&Aコーナーがあり、今回はその延長としても見れます。思い返せばSHHisのときも質問がどうという話がありました(そのときは美琴さんの質問に答えるのみでした)。

ここには一貫した目論見とか信念とかそういうものがあるようにも思えてきます。

 

でもそれって何?というのが疑問の一つ目です。

二つ目はあまり分ける必要もなかった気もしますが、このような企画でアイドルの世界と我々の住む世界とを接続させることが最大の特徴で、何かの意味を持つはずですが、いったいどういう意味を持つのかは掴みかねています。

 

という疑問の整理をしておいたのですが、ちょうどこのタイミングで多くのPさん方と話す機会があり、ヒントを得ました。

とはいえ、あくまでヒントであってクリティカルに答えとなることはなく、依然難航中です。ここでは少しメモ程度に。

フィクションがリアルな実感をもつものに変わるということは、意外と日常的にも見られる。挙げてもらった例はオフ会以降にアイコンの先に人間がいるというふうに存在レベルが変わるという話で、それを受けて思い出すのは『明るい部屋』ではづきさんを人間として見るようになったという経験。これについてはnote書いたことあるので割愛。

さらに別の例をあげると、ネット上で面と向かっては言えないことを平気で言う人が、おそらく相手をリアルな人間として認めることに失敗している事例がある。それは現代の新たな病という感じがしていて、そうなってくるとシャニマスTwitter連携の試みを「架空のキャラクターがあたかも現実に存在するかのような錯覚をもたらす小粋な遊びごころ」という話で片付けるわけにはいかない意味を見出したくなる。