北陸旅行 7日目 恐竜博物館day

前日に言っていただいた通り、宿の兄ちゃんが車に乗っけてってくれた。道すがら色々話していたのだが、今年は異常に雪が少ないらしい。普段は平均で1mくらい積もるらしいのだが、今年は道端には一切積もってない。冬の寒い時期に死ぬほど寒いところでも行ってやるかというつもりで北陸に来たので正直ちょっと拍子抜けしていたのだが、これを普通と思っているといつか痛い目を見るやつだ。僕が到着する前日は普通にマイナス十度以下で道路もツルツルだったとか。それでもかなりの暖冬で、過ごしやすい反面、宿としてはスキー客が減って痛手のようだ。そういえば、この辺は全然地震の影響はなかったが、さすがに年始はキャンセルが続いたという。状況のわからない時期は行きにくいのもよくわかる。

昨日は暗かったし雨だったので知る由もなかったが、車から眺める景色はどこを見ても山を眺めることができてなかなかいい。関東平野の真ん中に住んでいると山がある光景ってだけでけっこうテンションが上がる。外国人でもこういうのどかな風景を求めて来る人がまあまあいるらしい。わざわざ外国から?と思わなくもないが、東京の混雑に嫌気がさした人が来ることもあるという。

 

 

恐竜博物館

到着。親切にも入り口の真ん前まで車をつけてくれたので、広い駐車場を素通りしてすぐに入れた。入館が10:3017:00の閉館まで恐竜博物館にいた。一瞬だった。事前に所要時間を調べたところ、平均は1時間半だがけっこう長居して5時間くらいだったという人がいたので、10時半スタートならゆとりあるだろうと考えていたのだが、全然時間が足りない。金沢からの移動のついでに立ち寄れば1時間くらいは見れる計算だったので、そのプランも考えていたのだが、そんなん今にして思えば本当に愚行だ。

今は混雑時期から外れているので当日券でも入れるが、基本的には予約制をとっていて、指定の枠の1時間内に入らなければならない。場合によっては遅刻したら入れないこともあるようで、そうでもしないとめちゃめちゃ混むような場所だということだ。恐竜に全然興味がなかったので油断していたが、あそこは何時間でもいられる。これでも最後の方の展示は駆け足だった。

で、何がすごいのかという話なのだが、全部話すとなるとそれこそ滞在時間と同じくらいかかってしまう勢いなので、大枠でいくつかの項目にしぼって話したい。といってもまだ整理がついていないのだが……。

ざっくり挙げていくと、研究者の努力が凄まじいということが一番だろうか。それを踏まえて見てみると展示品の希少性に一層の感動を覚える。恐竜を通して知識や好奇心が広がっていくのも純粋に面白かったし、思いを馳せるその気持ちの射程が過去方面へと遠く伸びていく意味でも広がりがあった。見せ方もかっこよくて入館していきなり気合いの入った展示があったりするのも最高だった。

 

 

1.恐竜研究の現在を目の当たりにできる

先に述べたように僕はたいして興味はなかったが、映画『ジュラシックパーク』なんかのデカくて強くてかっこいい恐竜のイメージを通して、子供の頃から恐竜の存在にはよくなじんでいた。それくらいの距離感の、ほとんど知識のない者としては、恐竜はすでにそれなりに研究されていて現代の恐竜研究は細かいところを埋めていくばかりのように思っていたのだが、これがぜんっぜん違う。まっったく違う。たしかに一個一個は細かな研究であるとしても、今なおドラスティックに仮設が覆されている。その研究の最先端を反映しながら解説や展示を行っている。意見が統一されていないことについてはその通りに書かれたりしていて、学術的な誠実さも随所に見られる。恐竜の痕跡と並んで研究者の痕跡もそこかしこに確かめられる。

たとえば一番多く恐竜の化石が展示してある一階のメインフロア、その真ん中にティラノサウルスの模型がある。これは化石ではなく皮膚も再現しているように生体を模した模型で、動いたり唸ったりするため、とてもキャッチーで博物館のシンボル的な存在でもある。が、これがただの客引き的なマスコットだとあなどってはいけない。最近の研究からティラノサウルスは以前に想定されていたのと違って唇があるという説が有力になっており、歯をむき出しにした見覚えのある姿ではなく、口を閉じているときにはしっかり歯が隠れるような作りにしている。恐竜博物館は比較的最近に改修工事をしていて、それまでは歯がむき出しの模型だったのだが、工事に乗じてこの模型も新しくしたのだそうだ。なるべく本当の恐竜を再現しようという熱意がここだけでも伝わってくる。

他にも後ろ足で立った姿で再現されている古い複製模型につけられた解説では、現在では四足歩行をしていたと考えられると書かれていたり、ブラキオサウルスという首の長い恐竜が実際には思い首を高く持ち上げられているかどうか意見が割れていると書かれていたりする。かっこいいものに痺れさせておしまいではなく、恐竜研究の現在を見せる展示になっているのだ。

 

 

2.少なすぎる手がかりからの成果がアツい

曲がりなりにも植物の方で分類の勉強していた身からすると、化石から種を判別するのはそれだけで離れ業に見える。骨のどこそこの突起が……と特徴を出してくるのだが、単純な劣化で欠けているのかもしれないじゃんと思ったりもする。生体なら皮膚の模様とかが判別のヒントになるだろうに、皮膚なんかほとんど残らない。それどころか、近所に出てきた骨が同じ個体や種のものかなどの保証もないのだ。骨が一箇出てきたところで脊椎のうちの一箇なのか足の甲を構成する小さい骨なのかも素人目にはさっぱり分かるまい。出てきた骨がどの骨とつながるものなのか、そもそも新しい種のものか既知の種のものなのか、不確定要素が多すぎる資料が研究対象となっている。発狂ものだ。

だからこそ一個体のものと明らかな化石が出土すれば、その興奮たるや想像するだけでもたまらない。実は博物館に入って比較的すぐ、メインフロアに上がる手前にあるのがそうした化石だ。これはカマラサウルスという恐竜の一個体の化石がほぼ生体のときのままの位置関係で保存されていたものだ(正確にはそれを再現した標本で実物ではない)。これさえあればどの骨がどの向きで接合していたのか、かなりのヒントになる。骨には筋肉が張り付くための面があり、ひょっとしたらこれまで可能性レベルで推測に推測を重ねていた骨と筋肉との配置が明らかになる契機になったのかもしれない。いやこの筋書きは僕の想像でしかないのだが、研究者たちの喜びを想像し、ついついほくそ笑んでしまう。

 

そして手がかりという意味でもっとアツいのは、恐竜のミイラだ。これは実物の化石が展示されている。ブラキロフォサウルスという恐竜のものでレオナルドというニックネームがつけられている。愛されている。そりゃそうだろう。本体については骨や歯くらいしか残っていなかったのに、レオナルドには皮膚や筋肉のあとが残っているのだ。よくある恐竜の生体イメージはいかにも爬虫類然とした柄のある鱗の皮膚だが、実際のところあれは現代の爬虫類をヒントにして想像に想像を重ねただけのものがほとんどであるらしい。今もその状況はそれほど変わりないのだが、レオナルドのように皮膚が残っていれば鱗の様子がヒントになってきたり、場合によっては色素なんかの手がかりが得られるかもしれない。

今後の発見を通して、我々の恐竜のイメージがまた刷新されることは十分に考えられる……というか大なり小なり確実に起こることで、いま我々は恐竜研究の最先端に立ち会っているのだと実感する。展示の中には恐竜研究の年表があり、2020年のものもあった。色について言えば2017年に「一部の恐竜の卵に色が付いていたことが判明」とあり、個人的に目を奪われたのは2016年の「琥珀に保存された恐竜の尾の一部を発見」という記述だ。どのような保存状態なのかわからないが、またしても骨以外の材料が出てきている。ここから分かることに思いを馳せる。胸をときめかせないわけにはいかない。

と、ミイラや琥珀などの発見に感動してきたが、実のところ現状の資料で分かることをとことんまで絞り出していることにも強く心打たれる。首の骨や歯の形状から高いところの葉を餌としていたが咀嚼するのではなく、濾し取るように葉をこそぎとって飲み込んでいたと推測されていたりする。そしてその様子が再現映像にもしっかり反映されている。どこまでも研究ベースの解説・展示だ。トリケラトプスの頭骨内部の研究から脳の様子を推察し、嗅覚よりも低音を聴くことに適していたという仮説を出していたり、アギリサウルスの目を支える骨(強膜輪)が保存されている標本の形状から主に昼間に活動していたと推測されていたりする。足跡の化石なんかもすごいもので、体重や時速や走り方が推測されていたり、親が子をかばいながら肉食竜から逃げている様子が確認されていたりと、なんでそんなこと分かるんだよと驚きを隠せない。制限の多い研究対象からこれでもかというくらいの成果を取り出すことに終始感動していた。

 

 

3.常識が覆る

繰り返しているように恐竜研究はまだまだ途上で、僕らが小さい頃に見たイメージが今となっては覆されている事例が多々ある。ブラキオサウルスはその巨体を支えられるわけがないということで、以前は水中を歩いていたと想像されていたが、今では十分自重を支えられると考えられている。イグアノドンは他の恐竜と同様に陸上を歩くものと考えられていたが、姿勢が見直されて半水中生活をしていたという説が今は有力になっている。それまでの仮説も十分に説得的だったのが、根気強い研究の上に覆されている。

自分の恐竜に対する理解が次々に刷新されていき、中でも面白かったのは恐竜絶滅に関わるストーリーだ。これについては、巨大隕石説を筆頭にいくつかあって決着がついていないところまで含めて比較的有名な話ではある。僕が面白いと思ったのは「ある意味では恐竜は絶滅していない」という主張だ。言ってしまえば、恐竜の一部が鳥類へと進化しているでため、古い恐竜は絶滅していても新しい恐竜の一部が現代にも残っていると考えてもいい、というだけの話なのだが、これはけっこう衝撃的だった。

そもそも鳥類がどこからきているのかあまり把握していなかったというのもある。学校では脊椎動物は進化した順に魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類と習うもので、魚類が肺呼吸などを手に入れて陸上に適応していったのが両生類で、乾燥にも適応して鱗を得たのが爬虫類というざっくりとした理解をしている。追加で知識を仕入れていなかったせいなのだが、この理屈だと鳥類から哺乳類に進化したかのように見えてしまうがそんなことはなく、鳥類からではないとなると哺乳類は爬虫類から進化したのだったかな……? と疑問を抱きながら、放ったらかしにしていた。これが氷解した。というか、その分岐点付近にいたのがまさしく恐竜だったのだ。

 

恐竜博物館で得た知識を整理すると、おおまかに恐竜には鳥盤類と竜盤類がいて、竜盤類から鳥類に進化を遂げる種が現れた。始祖鳥はその名の通りに鳥類へと進化する最初の世代の生物になる。爬虫類と鳥類の大きな違いとして飛行能力だけでなく毛の有無が挙げられるのだが、恐竜の一部では毛があることが確かめられている。爬虫類と鳥類とをつなぐ特徴が見られるのだ。ちなみに例のシンボル的な動くティラノサウルスも幼体では毛があることが確認されているのだが、現段階では成体に毛がある証拠は見つかっていないため模型でも毛はつけていないそうだ。どこまでも科学的知見ベースだ。

脱線しかけたが、要するに恐竜から鳥類が進化していったという線は確定的で、鳥類が現代にも残っている以上、恐竜の一部が生き残っているという意見は考え方次第で間違っちゃいないというわけだ。植物で言えばイチョウや松に代表される裸子植物はその全盛期はもっと昔で、それこそ恐竜が栄えた中生代には森林を形成するほど幅を効かせていた。被子植物の登場後、多くの裸子植物が絶滅にいたったのだが、このように古い生物種が絶滅して一部だけが残ることは珍しくない。恐竜の場合にいかにも恐竜然としたものが一切残っていないことにロマンを感じる面もあるにはあるのだが、むしろ当時から生きていた種が今も生きているという方が例外的で、だからこそシーラカンスなんかが生きた化石と呼ばれて珍しがられるのだ。脱線しまくって恐縮だが、イチョウも実は生きた化石で自然生息域は中国のごく一部の領域に限られてその点で絶滅危惧種であったりもする。奇妙といえば奇妙な話だ。

話しそびれていたのが一般に翼竜と呼ばれる連中の話で、実はあれらは鳥類への進化にまったく噛んでいない。それどころか現代の恐竜の定義からすれば恐竜ですらない。定義と言うと人為的に仲間はずれにしているように聞こえてしまいそうだが、進化学的にはけっこう早期に分岐しているため、飛べるからと言って鳥類と親戚なのではないことは違いないようだ。進化的に離れていても同じ形質を持つことを収斂進化と言ったりするのだが、そんなところだろう。おまけで言うと海獣という海の恐竜も定義的には恐竜ではないとのことだ。どれもこれも全然知らなかった。常識とすら思っていなかった曖昧な知識が次々に覆される。

それから哺乳類への進化についてだが、正直この辺の整理はあんまりついてない。少なくとも爬虫類の一部が恐竜方面へと進化するよりも前に分岐して哺乳類の先祖にあたる生き物が生まれたとされている。間違ったことを言ってるかもしれないが、単弓類というのが哺乳類の先祖にあたるグループだそうで、なんなら両生類の頃から双弓類(恐竜含む爬虫類グループの祖?)と分岐したという話が最近は主流っぽい。となると、もはや爬虫類から哺乳類とも言えないようで、生物学の進歩を目の当たりにしている。というか自分だいぶ無知だったんだな。

 

 

4.まなざしの広がり

以上が知的好奇心が刺激されたという話(の一部)になるのだが、そこでも見られたように知識と好奇心は次々に広がっていく。恐竜の化石がある展示の次に待っているのは地球科学のエリアで、造山運動や断層や岩石の特徴など地学分野の展示がある。ここの気合の入り方もなかなかのもので、断層をそのままひっぺがして貼り付けていたりする。深成岩とか堆積岩とかの系統ごとにターンテーブルがあって、それぞれ10個くらいある石それぞれについて解説がモニターに表示されるなど、今日中に返すつもりのない展示だ。フロアを上がると古生物のエリアも用意されていて、知的好奇心の広がりはとどまるところを知らない。

 

しかしもちろん、というか今まで言及しなさすぎなのだが、化石が生きていた過去へと想いを馳せることが化石を見る醍醐味のひとつだ。知的好奇心が広がっていくように、過去へ向けるまなざしが遥か過去へと届くような壮大な気持ちになる。恐竜が生きた古生代というのは大変な昔というのもおこがましいほどの昔だ。人間の一生の間にも無数のことが起きて、そのことで苦労しながら長々と生きているのに、それでも一般的に100年いかない程度だ。というかまだ全然そんな生きていない自分の年齢でもそこそこ長く感じる。そういうことの積み重ねで歴史があるわけだが、古事記が書かれたのが8世紀はじめという話で、それから信じられないほど多くのことが起きているのに、それでも1300年かそこらだ。恐竜が生きた中生代の終わりが6600万年前ごろというのだからそのスケールのヤバさがわかる。6600年を1万回繰り返すのだから意味がわからん。しかもそれは中生代の終わりごろの年代で、中生代初期ともなると2億5000万年前らしい。途方もないことだ。

「億年」という、およそ体感では理解できないタイムスケールを超えて存在しているのが恐竜化石であり、その年月を目の当たりにしていることに気づくと眩暈がする。それほど長い間、分解されず残っているというこの事実が凄まじいものであるし、過去の出来事が保存されている化石を通して億年の片鱗を感じるようだ。

 

そういった感動の最たるものを二つ紹介しておきたい。ひとつは二頭の恐竜が組み合って格闘している状態で発見された化石だ。先のカマラサウルス同様に全身骨格が保存されているという点で学術的な価値も見逃せないが、まさに遥か過去の出来事がそのまま保存されていて、それを間近に見ているという体験は凄まじい。え、あれ本物だったんだろうか。正直、本物かどうかもはやわからないのだけれど、恐竜二体が組み合って爪が刺さっている状態で見つかったのは事実なわけで、複製だろうと何だろうとその事実に対する感動は消えるものではない。

もうひとつはなんと恐竜ではなくガブトガニだ。「死の舞踏」と題されたその化石は足跡が続いた先にカブトガニ本体があるという状態で保存された実物の化石だ。説明を重ねなくてはいけないのだが、まず順当に続いていた足跡に反して本体付近だけ乱雑に跡が残っていて、生前の最後にばたついていたことが読み取れる。また、足跡の化石はへこんでいるとは限らず、上にかぶさった地層の方が採取されれば盛り上がったかたちで残ることもあるのだが、この化石の場合は盛り上がっている側になる。そのため歩いているカブトガニを下から見た図が保存されているはずだ。しかし、この化石に残っているのはカブトガニの背中側だ。これらを総合すると、せっせと歩いてきたカブトガニが何らかの理由でひっくりかえってしまい、体を起こそうとばたつかせたという状況が浮かび上がるのだ。起き上がれず絶命した直後に地層に埋もれたのか、ばたつかせているまさにその時に埋もれたのかは僕には判断がつかないが、化石ひとつからこれだけのことが読み取れるという面白さがあるし、億年単位の昔の出来事を現代にあざやかに蘇らせることに感動を禁じ得ない。心を向けないと聞こえない化石の語り草は、果てしない過去が実在していたことを証しする。このことに深く心を打たれるのだ。

 

 

5.面白い!

実を言うと、このカブトガニの展示は初っ端にある。入ってすぐ正面にある大きなエスカレーターで三階から地下一階に降りていくのがまずわくわくなのだが、地下一階の短い廊下の壁の左右に化石がずらっと並んでいる。「死の舞踏」は左側一番手前にある。この廊下にあるものは全て本物の化石だそうで、恐竜が出てくるまで盛り上げる前座のように見えて、その実かなり気合の入った展示なのだ。廊下の突き当たりには先に述べたカマラサウルスの全身の化石が生体のときのままの配列で残っていたものの再現複製があり、これも恐竜研究の困難を思えば興奮冷めやらぬ展示であった(無知な僕はこのことに後から気づく)。それを眺めて階段を上がれば一面に恐竜化石がズラーッと並んでいてティラノサウルスが動いていて……と、とても演出的な展示となっている。

まわりながらずっと音声ガイドを聞いていたのだが、ガイドの順に進むと全部のエリアをくまなく回ることができる。しかしそのガイドが好きな順に回ってくださいと度々言う通り、興味があるところへ行くことを阻害しない開放的な空間配置でありながら、ガイドに従えば見えてくるような動線がきっちり引かれていたりもして、親切な案内が用意されてもいる。好きなようにまわることもじっくり見ることも許容しており、アミューズメント施設としてとても優秀だ。それでいて入り口の最初だけはルートを定めて演出するところはきっちり決めていて緩急も見事。たいして興味もなかったはずなのに、最初の数分で心を鷲掴みにされてしまっていた。

解説の充実具合に長時間滞在を決めてしまったのだが、ただ眺めるだけでも楽しいし、好きなタイミングでミュージアムショップにもレストランにも行けるし(レストランのメニューも遊び心があった)なにがしかの体験コーナーもあるようだ。1日で満足できないくらいのボリュームがあって、心ゆくまで楽しませようという矜持を感じる。それはひとえに「恐竜って面白いよね!」という思いへの信頼でもあって、関係者一同の恐竜愛を感じる。そういう風に作られた施設が面白くないわけない。超楽しかった!

 

 

帰路

以上が恐竜博物館についての感想になる。旅行記に戻っていくが、恐竜博物館をたんと満喫したので今日はもう帰宅するのみである。当初は余った時間どうしようかな~などとうっすら考えていたのだが、そんな余裕はないし必要もなかった。

博物館から勝山駅までバスで行き、そこから電車ではなくバスに乗って越前大野駅に戻る。福井駅からV字に電車が二本出ていて片方が勝山、片方が越前大野方向へと伸びているのだが、それぞれをつなぐ電車はない。なので電車を使いたければ福井駅を一旦経由しなくてはならず、バス利用が合理的になる。バスで駅にきてバスを待つのはちょっと新鮮で、電車を利用しない人間が駅の待合室を使うのはどうなのかなと思ったりもしたのだが、そういうの都会の悪いところに染まってる感じもする。

駅について宿に戻るまえに越前大野周辺を真っ暗ななか観光しておいた。一応この辺も古い街並みが残る観光地であって、旅館もそこそこある。何も調べずに宿をとってたので着いて初めてそういうことを知った。真っ暗なのでろくにわからないが、翌朝歩くとした場合の想定をする下見的な目的もあったので別にかまわない。その足で昨日とは違うところで夕食を済ませた。これも宿の人に紹介してもらった地元の定食屋さんで、良心的な値段で美味しいご飯がたっぷりだった。ある種の観光地にありがちなガツガツした感じがなく、それでいて余所者にも排他的でない雰囲気がありがたい。心穏やかになる。

宿に帰って宿の兄さんに、恐竜博物館が死ぬほど面白かったことを報告し、送ってくれたことのお礼を改めて伝え、夜はのんびり過ごして22時に部屋に戻った。今日は自分一人しかいなかったので消灯時間を過ぎて荷造りをするというズルができた。翌日が最終日なのが信じがたいが、長い旅路を満喫したせいか、福井のスローライフに浸っているせいか、名残惜しいとかはない。まぁ帰った後も無職期間は少し続くのがでかいというのはある。