刹那のこと

「刹那」

一瞬のことをカッコよく表現できるこの語に痺れた経験のある人は少なくないと思います。かく言う僕も高校生の頃、かっけーと思っていて、たぶんそれがきっかけで辞書を引いたことがあります。当時の記憶が曖昧に残っていて、意外としっかり秒数指定されてたなというのを思い出して改めて辞書を引いてみました。

 

広辞苑(第六版)

刹那 〔仏〕極めて短い時間。一説に、一弾指(指ではじく短い時間)の間に65刹那あるという。一瞬間。↔︎劫

 

ブリタニカ国際大百科事典には「1刹那は現在の単位にすれば0.13秒ぐらいにあたる」という文言もありました。

高校生の頃は65刹那といういかにもな豆知識を友達にひけらかしてにやにやしていたのですが、今にして思うと納得がいかないところが大いにあります。

といって、0.13秒を65回繰り返すと8秒ちょっとになる露骨な矛盾に引っかかっているのではありません。たしかに愚直に辞書に従えば、指をはじくのにそんな時間がかかるわけないので破綻することになります。しかし、おかしい原因は別のところであって、まさしく僕が不服に思っているところでもあります。

僕が気に入らないのは要するに「刹那が数えられること、65刹那のように単位として使えること」です。

65刹那という話が出てくる原典にあたっているわけでもないしサンスクリット語などわかる由もないので、改定すべきとは言わないのですが、刹那というのは意識できるかできないかギリギリくらいの一瞬間というイメージを持っていました。言い換えれば、意識体験としての瞬間としての側面が強いものだと思っていたということです。

瞬間とは今現在のことについてしか意識できない(せいぜい「次の瞬間」を今現在においてかすかに予感できるくらいでしょう)もので、過去も未来も均質に並べる時間系列の中で瞬間を扱う場合、単なる理論上の観念(体験されないず概念でしかないもの)に成り下がります。

そうすると、瞬間という今しかないものなのに65回数えるための単位とするのは、今現在という「刹那」の語を使える場面を逸脱しているように思えます。瞬間を加算してそれなりに幅をもった時間にすることについて、意識体験としては例えばどのようなものなのかも掴みかねています。そういう違和感を覚えていました。

 

固定的な時間幅という意味と、時間的に最小の意識体験という意味とは別のものでしょうし、自分の感覚では刹那とは後者のことを指していました。他の人とか、昔の用法ではそうではなかったのかもしれませんが、僕の理解する限りでは刹那を0.13秒と言い換えるのは納得がいきます。指をはじく時間の65分の1というのも納得がいきます。ただし刹那を使って時間を数えることには納得できない。そういう語感を持っていました。

 

若干、自分の感覚を補足できるんじゃないかと思うのは「刹那主義」という用法です。またもや広辞苑を引くと「過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りるとする考え方」とあります。現在を意識する立場に刹那とつけられていることがわかります。とすれば瞬間は瞬間でも、今現在から離れた瞬間に対して「刹那」という語を適用するのは誤りのようにも思えます。あるいは刹那主義の方が間違いなのかもしれませんが……。

 

 

余談ですが、刹那を足すのは納得できないが、指をはじく出来事を分割できることには納得できるのは面白いところだと思います。個人的には分割というより65分の1に収縮するイメージで、今が可変的な幅を持っていると考えているので、僕はすんなり受け入られます。いかがでしょう?

 

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追記です。

その後、ちゃんと色々な辞書で調べたところ『日本大百科全書』に「今日の「刹那主義」ということばの概念は仏教のものではない」と明言されていました。

ちなみに、昔調べておぼろげに覚えていたのは1秒の75分の1という長さだったのですが、そのように説明する辞書もありました。刹那の長さを表現するテクストがいくつかあるということでしょう。

それで調べた結果、刹那は今現在のことを指す説がかなり弱まってしまいました。たぶん上で勘付いてたように刹那主義という語における現在への注目から派生的に刹那をとらえていた面はあると思います。反省。いずれにせよ僕の日本語実践では「この瞬間」をカッコつけて言うときにしか使わないんですが、サンスクリット語の用法でどうなのかって話とはかけ離れているってことですね……(あらかじめ「改定すべきとは言わないのですが」とエクスキューズ入れておいてよかったです)