善悪の相対性

数年前からフォロワー数名と輪読会をやっている。

最近『ゴドーを待ちながら』を読み終え、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』を読んでいる。これが残念ながらあんまり面白くない。というよりも納得のいかない主張が多く、そのおかげでいろいろ考えるきっかけは絶えない。

先日読んだのは「月光仮面」という章で、「正義の味方になるためには、どうして仮面をつけたり、変装したりしなければならないのだろうか」という問いかけから始まる。問題設定は面白い。正義の味方は純然たる正義でなければならないけれども、同じ行為や同じ人間が正義でありかつ悪でもあるものだから、自らを正義と主張するためには人格を切り離さなくては成立しないのだ、という話の流れになる。そこからさらに、正義の味方が依拠している正義とは既製品であって、それを検討することなく受け入れるから純然たる正義があるかのような態度をとってしまうのだ、と批判するような調子が続く。

純然たる正義など存在しないというのはよくわかる。けれども、正義をめぐっての議論には独りよがりな言い分といった印象が否めない。最終的に「自らの正義をつくり出さなければならない、というのが私の月光仮面への最初の注文である」などと述べるのだが、これは明らかに詰めが甘い。たとえば、やまゆり園の障害者殺人事件の犯人は障害者は役に立たないのだから死んだ方が社会貢献であるという自分の正義感に則って動いているように思われるし、京アニ爆破や安倍元首相の殺害といったテロ行為も自身の正義感が犯人を突き動かしていた側面がありそうだ。仮にも正義を主張するならば公共性は担保されていなければいけないはずなのだが、「自らの正義感」を醸成することを主張するのみでは義憤にかられた暴走を許容しかねない。

寺山修司の文章は今のところ読んでいる他のも同様の雰囲気で、普通はこういう風に言われているけど、ホントはそんな常識は通用しないんだよね、と読者を釣り上げてから、常識とは正反対に振り切った主張を展開する。あたかも旧態依然とした価値観にとらわれている人間にはわからない世の中の真実であるかのような勢いで極論を振りまくのだが、(いや騙されんからな?)という気持ちを毎度抱く。

もし自分が若い頃に引っかかてたら大人になってから後々後悔しそうな男だなと思う。「普通」や「常識」を下げれば、無知蒙昧な民衆の見えていないものが見えている自分たちという構図は簡単に作り出せるものだ。そういうやり方で自分を物事のわかっている人間と思い込んでいるのだとしたらほとほと浅ましい。他の戯曲とか詩とかがどうなってくるのかはわからないけれども、エッセイは相当期待はずれであった。

月光仮面」の話に戻せば、正義と悪は截然と分けられるものではないという主張を誰が受け入れないというのかと思う。聡明な読者だからわかると思うが……という雰囲気で書いている(と読むのは偏見がすぎるかもしれない)が、大抵の人間はいうまでもなく納得するものではなかろうか。問題はたとえば「正義と悪が渾然一体となってしまうならば、正義であるためにはどうしたものか」というように進んでくるし、そちらの議論こそが重要であるはずだ。寺山修司は前述のように自分の正義を作ること程度の脇の甘い結論を出すのみである。そこに説得力が出ているとすれば、通じ合った君と僕ならきっと伝わるとおり然々で……と前提条件への納得感で煽った共感を原動力としているからに過ぎないように見える。手厳しすぎるだろうか。

ともあれ、この話を取り上げたのは何も寺山修司の悪口を言うためではない(念の為言っておけばの戯曲はいくつか好きなものもあるので、まだ本への期待は捨てていない)。同時並行で読んでいる本で悪と正義の不分明さに対する面白い見解が提示されているのを見かけて、ちょっと考えてみたくなったからだ。

『世界は文学でできている~対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義~』という本で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を訳し、今更のブームを引き起こした亀山郁夫さんとロシア文学研究者の沼野充義さんの対談から少し引用する。現代日本文学へのドストエフスキーの影響はどれくらいあるのか、ドストエフスキーはなぜ現代においても読むに値するのか、という問いに対して「善悪の相対性」に着目した亀山さんの回答だ。

 

たとえば「いじめ」を語るにしても、いじめられる側だけに理屈があるのではなく、いじめる側にも理屈がある、という善悪の相対化と言いますか、そういった視点が出ている。問題は、そうした視点で作家が書いているということではなく、物語の登場人物の中にすでにそうした相対性の観念が埋め込まれているというところです。これは、むろん深くニヒリズムに通じ合っていますが、現代の社会を見るまなざしに、このニヒリズム以外のものがあるとして、ではどんな希望の原理を据えることができるというのでしょうか。そもそもそんなことは不可能かもしれない。(中略)フィクションそのものに、人間の情動を根源的に揺り動かす何かがあれば、それ自体が希望です。生命の蠢きを瞬間的に可能にする何かの力があれば。上っ面な希望は要らない。文学の使命はもはやそんなところにはないと思うんですよ。

(pp.330-331).

 

続けて「いまは善と悪の境界線が見えなくなったと言われますが、実は善は見えている。見えているけれども、悪との境界をはっきり引くことに意味がなくなってしまっている」とも述べる。ある行為がこちらから見れば善(正義)であっても、別の立場からは悪意を読み取られてしまうことは想像に難くない。老人に電車で席を譲っても、本人からすれば老人扱いされたとプライドが傷ついているかもしれない。経費を抑えるために安い製品を購入したが、頻繁に壊れるようになれば社会に出回るゴミを増やしてしまうことになる。しかしそんなことばかりならば、何が正しいのか考えても無駄ではないかと思いかねない。だけれども、それは何が本当の正義なのかを考えることに固執しているからなのかもしれない。寺山修司が正義について吟味する必要を訴えていたのも、純然たる正義は存在しないと言いながら何ならば純然たる正義と言えるのかを考えようとしていたと整理しなおすこともできそうだ。問題はそこじゃない。正義や善について完璧なものなど存在しないとしても、考えることは残っている。具体的に何と言われれば難しいけれども、考えることが残っているというのは大事な気づきに思われる。じゃあこういう方向を目指せばいいんだという指針は、おそらくいつまでも示せないのだが、善悪が曖昧であるその場所にとどまって考えた結果が劇的であれば、それはなにかすごいことなのではないかと思う。

なお引用には別の文脈があるので、亀山さんの発言としてはドストエフスキーが善悪を裁く神がいない時代において生きるとはどのようなことかを問うているからこそ現代においても強い魅力があるのだという話になる。本当の正義を考える代わりに起きるなにかすごいこと程度のビジョンしか見えていない今、ドストエフスキーは「なにかすごいこと」への期待度は高く、読むモチベーションが高い。そしてこの駄文の落ちなのだが、さっそく『カラマーゾフの兄弟』を購入してきた。もちろん亀山郁夫訳である。