広島旅行

高校の同級生と広島に来ています。卒業旅行的なやつです。

一年浪人もして、大学に長く居座り続け、仲のいい友人たちは軒並みとっくに社会人をしている状況でしたので、自分が卒業旅行することなど考えていませんでしたが、ちょうどぴったり同じタイミングで卒業するやつがいました。当時所属していた部活の同期で、中高一貫校でしたので中一から高二までの五年間一緒にいた同期三人のうちの一人です。まさかのディープな付き合いの人間が残っていました。それで、部活同期の残った一人が広島に勤めているというので、会えるかどうかはさておき広島に旅行先を決めました。

 

連れが「広島行ったことないし良いんじゃない」と言っていたことも後押しになりました。僕も行ったことありません。原爆ドームは定番の修学旅行先ですから、二人とも行ったことないっていうのは珍しいなと一瞬思ったんですが、中学高校が同じなんだから当たり前すぎました。あれから人間関係増えたからこそのうっかりです。

 

初日は深夜バスで広島に7:30着。現地集合にしたので昼過ぎに相方が着くのを待ちます。

旅程をまったく組んでいなかったので、とりあえず目についた庭園「縮景園」に行きました。広島城の領主浅野長晟の別庭で、茶人の上田宗箇が作庭したとのことです。ボランティアのガイドさん曰く中国の西湖の景勝をコンパクトに縮めたから縮景園と呼ぶそうです。入り口の看板には、山や池や橋などあらゆる景色が一つ所にまとまっているから縮景園であると書いてあった気がします。公式HPには詩からとったとも書いてあります。はて……?

ともあれ庭の景観が好きな人間にとっては楽しいところで、季節がら色々な花が咲いていたのも見どころでした。入ってすぐにミモザが迎えてくれ、アオキが小さい花をちょこんとつけ、一部の梅や桜が満開で、ハクモクレンも見事に咲き誇っていました。馬酔木や椿もちょうど開花しており、存在感を示していました。

それから驚いたのですが、ここの庭園には桜の標準木というのがあるそうです。つまり、この桜が咲いたら開花宣言をするという基準になる木です。東京はちょうど昨日ぐらいに開花していましたが、こちらはまだまだのようです。庭園内で咲いていた桜はソメイヨシノではない桜でした。

庭園内には大きな池があり、汽水域の川から取水しているため海の魚も川の魚もどちらもいるようです。網をかけて取水していて、そこに紛れて通過してきた幼魚が池の中で育って大きくなると帰れなくなって、池の中にはそれなりの魚がいるとのことです。鯉が泳いでいる池は鯉が泥をさらったりする関係で濁り、プランクトンの成長を阻害し、結果として生物種が少なくなることが多いと聞きますが、ここはそうでもないようです。取水してるからプランクトンはまぁまぁいるってことでしょうか?

と、個人的には庭園を満喫していたのですが、この大きな池は原爆投下直後に2000人もの人が水を求めて集まり、そして亡くなっていったそうです。爆心地付近ですから、庭木もほぼ焼けてしまい、それ以前から残っているのはイチョウの樹一本とのことでした。イチョウはワイヤーで支えられて残っていて、その他の庭木は資料を参考にしつつ植樹したとのことです。また、庭園の景観には丘もあるのですが、水を求めて池まで来て亡くなった人たちの遺体がたくさんあったはずで、比較的最近発見された資料にはその丘に遺体を数十体埋めたという記述が見つかりました。それで掘り起こしてみると本当に遺骨が見つかり、祈念碑を新たに立てたそうです。まだ掘り返せば遺骨は出てくるのではないかというガイドさんの話でした。

原爆関連のものを見に来たつもりではなかったのですが、当たり前のように原爆の話が出てきて、広島は本当に原爆の経験のうえに出来上がっているのだなと、強く感じました。二日目に平和記念資料館に行きましたが、個人的には庭園の歴史を語るうえで避けては通れない出来事として原爆の傷跡が残っていたことに、最も原爆被害を実感しました。

 

縮景園は県立美術館が隣接していて、入園時に美術館のチケットも購入してました。

安かったので軽いノリで買ったのですが、なんとダリの作品がありました。『ヴィーナスの夢』です。でっかい絵をまったく混んでいない館内で悠々と観れたのは気分が良かったです。

で、個人的に激ヤバだったのが、カンディンスキーマレーヴィチの抽象画があったことです。抽象画って全然わかんなくて、特に後者なんか四角がポンって書いてあるだけだったりするんですが、それでも興奮してたのはこの人たちの絵をよく知ってたからなんですね。実は、修論関連で読んでた本の表紙に使われてたのがこの人たちの絵でした。長らく見てたのもあって、わからないなりに愛着がありまして、見ていてちょっと気分がいいくらいの感覚でしたので、僕が見てた絵があったわけではありませんが、大興奮でした。写真可能なところは全部撮る勢いで堪能しました。

ちなみに他ブロックもけっこう楽しめて、特に奥田元宋《青山白雲》は見事でした。置いてあったポストカードももらってきてたので、実物と見比べてたのですが、実物はなんかもう全然違いました。めちゃデカイのに細かくて、それでいてどこにもピントが合わない感じのタッチが霧の向こうの渓谷を眺めているかのような気持ちにさせます。同じ画家の秋巒真如》も見事です。湖面に紅葉の山が映っているのですが、どこまでが山でどこからが湖面なのかが、一目ではわからず、風景が渾然一体となっているところに感服しました。境界が明確であり、しかも曖昧であるというの、ある種の真実だなって思います。

 

美術館を出て、相方と合流し、ご飯を食べて、広島城に向かいました。

ここも原爆で焼けて、復元した場所でした。と言っても投下前から火災などによって城跡は一部しか残ってなかったとのことです。中は改装していて展示室になっていました。いくつか学びがありました。

広島カープはじめ、広島といえば鯉というイメージがありますが(というのをその場で知ったのですが)広島城の別名は「鯉城」と言うそうです。最初の城主が毛利輝元で、関ヶ原のちょっと前に建った城なのですが、これがいつから鯉城と呼ばれているのかは不明だそうです。現存している最古の記録として、頼聿庵が書いた漢詩『遊東郊』があり、まさにそれが展示されていました。頼春水→頼山陽→頼聿庵という家系で、父とか祖父とかは名前に聞き覚えがあります。昌平坂学問所とも縁のある江戸時代の儒学者でした。

広島城の城主は毛利輝元なのですが、城を建てるに際して「この広島の地域を……」的なことを言ったところから、この地は広島という名前らしいぞと住民たちに知れ渡り定着したそうです。堂々としてれば新しい名前でも通るらしいです。それで、毛利輝元関ヶ原で徳川と敵対した側の将軍でしたので勢力を縮小させられ、福島正則が新たな城主となり、次いで水野長晟が城主になって以降は水野家が住んだと言います。なので城主の入れ替わりが激しかった時期があることになります。

なんでこんな歴史を追っているかと言いますと、最近かなりいい状態でシャチホコが出土しまして、これは一体なんなんだということに関連するからです。このシャチホコ武家の井戸に隠されるように入っており、そこから発掘されました。天守につけるには小さいサイズで、外側の門などの飾りであったのだろうと考えられているのですが、なぜそんな井戸に収納されてたかというのが疑問です。それで諸説飛び交っているようですが、一つには城主が交代しまくった時期に、新しい人の趣味ではないから飾りが取り壊されるにあたって、忍びないから近くの武家がこっそり隠したのではないかというものがあります。出土品をめぐって色々考えるためには歴史の知識が必要なのだなぁという感じのことをしみじみ思いました。

 

夕飯は市内にあるお好み村でした。観光客向けのような場所で、建物の各フロアにお好み焼き屋がみっちり並んでいます。

麺があるのが広島の特徴と聞いてましたが、炭水化物の圧がすごいですね。が、小麦粉の生地はほとんどないので、言うほど炭水化物ばっかりって感じでもないのかもです。美味しくいただきました。

ちなみにお隣の席にドイツ人の家族がいらしてて、(特に相方が)英語でコミュニケーションをちらほらしてました。帰り際"Ich komme von Tokyo."とカタコトかつごく簡単なドイツ語を披露したらひどく喜ばれまして、言葉が通じるってそれだけで素敵なことなんだよなと改めて思いました。

 

 

 

二日目の旅程は宮島からの原爆ドームです。

 

宮島の厳島神社だと思ってたら地図には厳島と書いてあって「???」となっていたんですが、島の呼称はどっちでもいいようです。国土地理院厳島を採用してるので、地図上では厳島で統一されてるとのことです。

宿の近くから世界遺産なんとかという名前のフェリーが出ていて、電車など使わず直接宮島にいけました。片道2000円。着いたら鹿がめちゃいました。

厳島神社は潮の満ち引きによって景色がだいぶ変わるようで、今日は満潮までくると奥までは浸からないくらいの具合でした。めちゃめちゃ干潮のときだと鳥居まで歩けますし、めちゃめちゃ満潮だと本殿も海に浸かってて鳥居まで船出せたりするみたいです。観光地ともなると歴史の説明とか展示物とかけっこうあること多いですが、厳島神社は本当にお参りして鳥居の方見ておしまいって感じだったので潔かったです。実際、その場にいられれば満足度高いです。

厳島神社までは人がたくさんいましたが、山の方にある大聖院まで行くと人はグッと減りました。空海の建てたお寺とのことで、密教系のちょっと異色な雰囲気もありました。庭が綺麗で景色としてもかなり良かったです。

宮島ではアセビがいたるところに咲いてました。アセビは「馬酔木」とも書くようにちょっと毒がありまして、ひょっとしたら市内を跋扈している鹿と関係あるかもしれません。森林の下草を食べ、植樹したての若木を食べ尽くし、いまや害獣として名高い鹿さんたちが多い地域は、鹿が食べ残すものばかり残り、植生の多様性が低いというのはよく聞きます。だとすると有毒な馬酔木が残り、それゆえそこかしこで咲いているというのはない話ではなさそうです。

宮島では焼きガキ・穴子・揚げもみじを堪能してきました。穴子は関東では蒸して関西では焼くのが主流という噂を聞きましたが、とりあえずたしかに焼いてました。調理方法が違うので当たり前ですが結構違いました。文化的多様性。

 

往復のフェリーで帰ってきて、その足で原爆ドームならびに平和記念資料館に行ってきました。平和記念資料館は思った以上にボリュームがありました。しっかりめに文章読んだのもあって、1時間半くらい滞在しました。

知識としては新たなものはあまりありませんでした。全体として原爆を忘れないための場所なのだと感じました。基本的に当事者の体験を文章や写真などで残すかたちになっていて、知識を得るというよりは、知識でしかなかったものに肉付けされるような感覚でした。たとえば、火傷で苦しむ人が多くいた、ということ一つとっても「川を見れば水を求めて飛び込んだ人で埋もれていた」「渇きを癒すために黒い雨を飲む女性」「ケロイド化して何年も痛みに苦しみ、八度目の皮膚移植手術を試みた」などの証言が合わさってくると、その重さが増します。すでに知っていることを単に知っているだけにしないための場所、記念碑にある「過ちを繰り返しません」という宣言をかたちにするための場所であると感じました。

 

 

というところでしょうか。

今は三日目の朝です。今日は呉に行こうかなと思いながら、あんまり計画を練っていません。この旅行ずっとそんな感じです。連れがまだ寝てるのでブログ書いてました。

今晩、夜行バスで大阪に移動し、明日の夜にまた夜行バスで関東に帰ります。連れはまだ起きる気配ないので、近所のコンビニでコーヒーでも買ってこようかと思います。それでは。