北陸旅行2日目 雨晴海岸

朝、荷造りやら片付けやらをして朝食。今日も美味しい。ナイス。

今日の予定は「べるもんた」に乗って氷見へ向かい、海鮮丼を食べたら雨晴海岸へ行って飛騨高山を眺めるというもの。その後、僕は金沢へ移動、同伴者は翌日仕事なので高岡で解散する流れだ。

 

お世話になった宿を出てこの日は快晴。前日はボテボテ雪が降ってきて風もすごくて身体的にハードだったが、一転してとても澄んだ青空だった。前日の靴浸水があったため防水性に優れた靴を入手できたらいいなと思っていたのだが、同伴者がホームセンターを駅横に見つけてくれたため朝一番に立ち寄った。都合のいいことにお手軽価格で上々なものが買えて、早速履き替えて新たな相棒とした。高岡駅に戻ってくる予定なのでスーツケースは駅のコインロッカーに預けた。

 

 

べるもんた

事前予約が必要な列車「べるもんた」に乗る。正式名称はbelle montagne et mer(ベル・モンターニュ・エ・メール)で美しい山と海といった意味になる。指定席券が必要ではあるが、特急というよりも観光列車と言うべきもので、電車好きには人気が高いらしい。大学の後輩にも石川に行くならべるもんたに乗ることをおすすめしますと言われていた。彼曰く車窓からの景色は日本でもっとも綺麗だそうだ。

高岡駅にべるもんたが到着すると、なるほど乗客たちが一斉に撮り始め、僕らも例に漏れず撮影をした。熟年夫婦的な雰囲気のお二人のカメラマンを頼まれて、代わりに僕らの写真も撮ってもらったりした。こういう一期一会的な交流は結構好きだ。

僕らの席は窓に向いたカウンター席で、他にテーブル席もあった。事前に頼んでおけば電車内に職人が駐在しているため寿司を食べれたりもするので、さっそく始めている乗客もいた。今日は見事なまでの快晴なので遠景に立山連峰がはっきり見える。手前の住宅街なり学校なりの奥に見えているだけでもテンションが上がったが、この段階では景色というよりも電車内の優雅な時間を楽しむのが慣れた人間の仕草なのだろう。見どころはこの後に待っていた。

雨晴海岸のあたりまで行くと海沿いキワキワを電車が通ることになる。なるほど絶景と言うべき見事な風景で、海の向こう側に山脈が浮いているようにそびえ立っている。写真にするとどうしても小さく見えてしまうのが残念だが、むしろ山脈の荘厳さは実物の力と言うべきかもしれない。

カントが『判断力批判』で自然景物に感じる美を人間の感性のうちで捉えるとき、荘厳なものとして感じられるというようなことを述べていた。たしか。まともに読んでいないから真に受けないでもらいたいのだが、自然への畏怖を荘厳として読み解こうというカントに納得させられたもので、優れた景観に圧倒されるたび荘厳だなぁと感じるようになった。雨晴海岸もまったくもって素晴らしい。

前景には海上に突き出た大きな岩から松が生えていたりして、ちょっと出来すぎている。義経が奥州へ逃げるときにここで雨が晴れるのを待ったのがその名の由来だと言うが、こんないいところで待ってたなんていうのも出来すぎていると思う。場所がかっこよすぎるから後付けでちょうどいいエピソードと合体させたんじゃないか。

 

 

氷見市場食堂

頭おかしいくらい量が出てくると聞き及んでいた漁港の食堂。普段は平気で3時間待ちするとかしないとか。さすがに年明けすぐはガラガラだったと言うが、僕らが行ったときは、あんまり覚えていないが20分くらいで入れるくらいの混雑ではあった。まったく全盛期には戻っていないとは思うが、ある程度は集まっているようで良かった。混んでいて喜ぶのは滅多にないこと。

ただ、やはり氷見市高岡市内より被害が大きく、市場の少し先では断水なども続いているという話だった。市場への途中でも地盤が割れているところが度々目についた。地面が断裂していて地面を覆っているコンクリートの厚み以上に縦方向にずれて土が見えているところ、道路の真ん中で数十センチ陥没していてカラーコーンを立てて目立たせているところ、崩れた灯篭の残骸が歩道に残されている様子などもあった。もっと先にあるひみ番屋街では干物などを売っている店が開いているのみだそうで、トイレも使えないところが多いらしい。自分たちは結局行かなかったが、行ったほうがいい理由と行かないほうがいい理由とがあって正解がない。

そういうわけでまだまだ渦中であるのだが、氷見漁港はどういうわけか通常運転でセリなんかもかなり早い段階から再開していたようだ。不思議といえば不思議。海鮮丼は噂に聞いていたとおり価格のわりにやたら量が多く気前が良すぎる。我々はそれぞれ海鮮丼一つたのんだうえで寒ブリ刺身の単品を頼んで贅を尽くしたのだが、サービスであら汁みたいな汁物が付いてくるものだから、度を越してしまった感がある。最終的に食べ残しなくやや安心したが、日本酒は最少量頼んだのに余ってしまった。いかなまたとない機会であったとしても中庸が大事であることを強く思い知らされた。

とはいえ美味いものは美味い。超良かった。寒ブリひとつとってもマグロの大トロと赤身みたいに部位ごとにもはや別物で、「寒ブリの刺身」と言いつつ実質4種類の刺身が楽しめたようなもの。大トロにあたるものは舌ですぐ溶けた。海鮮丼の刺身も量だけでなく一枚一枚が分厚いものだから刺身を食べてる感じがしないくらいよく咀嚼した。言われてみれば魚も肉なのだ。

そういえば食堂に入るまでの待ち時間は港を散歩して過ごしたのだが、魚を積み上げるエリアには海鳥が闊歩していた。鷺みたいな鳥が細長い足で器用に歩いていた姿は本屋で目ぼしい本を物色しているときの自分みたいでちょっと面白かった。

 

 

雨晴海岸

予定ではこれから電車で二駅移動して雨晴海岸に降り立つつもりだったのだが、1時間以上待たねばならないらしい。次の駅まで1時間くらいという話なので海岸沿いを歩いて立山連峰を堪能しようということになった。次の駅に着いたはいいが、雨晴で降りたらもう一時間待つことになる。それはあんまりかな~という話になり高岡に直行したので、厳密には雨晴海岸に降りてはいないことになる。降りたとてそれほどやることも見えるものも変わらなかったかなとも思う。なにせ海岸沿いを1時間たっぷり歩いたのだ。

先に感想を漏らしておいたとおり、畏怖を覚えるタイプの自然景観だった。それに付け加えるなら、全然理解できなくて終始「嘘じゃん」と思っていた。海の向こう側なのに今立っているところと地続きの陸地にそびえ立つ山脈があるのが謎すぎる。地図でみても雨晴から海岸方面を見ると日本海しかなさそうなもので、なんとか東南東方面に海かつ山脈があることも納得できなくもないが、最後まで腑には落ちなかった。

向こう岸の陸地が見えないのに山だけが見えて、もはや山脈が浮いているようにも思われるのが威容であったりもするのだが、陸地部分が見えない分には想像がつく。以前聞いたところだと、水平線は5km未満の位置が見えているのだそうで、富山湾の広さはそれよりはるかに広い。対岸の地表付近は地球の球面の死角になって見えなくなっているということは想像に難くない。が、そうなってくると今度は、もっと遠いところにある山脈が球面からもはみ出て見えるのが意味わからない。いや、わかるが、デカすぎだろう。対岸の方の理屈がわかると、山脈の方の理不尽さが増す。

そういえば眺めながら気づいたことなのだが、僕は自然景観の凄さに圧倒されているあいだ、景色から人間を排除している。理不尽なほど大きい領域を目の当たりにしているのだから、目に見えている風景の中には(そのほとんどが高山領域であるとしても)少なからぬ人間がいるに違いない。が、その景色から当然のように人間の存在を除外して感動していて、荘厳の名のもとで美を受け取る感性フィルターは人間に対して働く感性とは別の機構であるのかもしれない、などと似非カント思想で戯れる。これも旅情か?

 

 

瑞龍寺

雨晴海岸の滞在の代わりに得たのは高岡観光の時間で、駅からほど近くに瑞龍寺というお寺があったので参拝した。気のよさそうなガイドのおじちゃんが声をかけてくれた。無料ということもありガイドを頼むことにした。結論から言えばかなり良い解説だった。

教えてもらったことはどれも自力なら気づけなかったことで、ポケーっと見て「うまく言えないけどなんかすごい良かった!」と言うのと、具体的にどこが面白かったとか良いと感じたとか細かく言うのとでは、圧倒的に後者の方が充実していると思う。言葉にしてしまうと消えてしまう感動があると言う人がたまにいるが普通に言語化能力の低さを正当化しているように見える。言葉にできないものの価値を語るにはまず、言葉にできるものを増やすべきではなかろうか。ということで、具体的なおもしろポイントをば少し。

一番目立ったのは建築としての魅力だ。組み木というのだろうか、昔の宮大工仕事では釘やネジを一切使わず、工夫された形を正確な作業工程を経て作ることで部品同士を噛み合わせながら強度のある接合を実現する。瑞龍寺の木はどれも釘などを使わず全部組んであるそうで、この機能美が見た目にも美しい。隙間なくはまっているのもさることながら、装飾的な意味合いも兼ねて組んでいるところがあるようで、建物を構成する無数のパーツが必要以上に飛び出ながら支えあっていて、機能以上の主張がある。

ガイドさんの話で面白かったのは、瑞龍寺では天井張りをしていないため内側からも組み木が見られるというところだ。屋根を支え壁を構成するパーツが内外両方に突き出るかたちで仕上げられているため、天井が解放されていればこそ室内からもその意匠が楽しめるのだ。天井がないのは、解放的な空間にする効果があったり、縦に長い上等な建材を十分に余裕をもって収めるためであったりと他の理由もあるようで、種々の理由が組み合わさってあの場が出来上がっている。

正面仏壇の後ろの板は美しい木目をしており、それを雲海に見立てているという話で、随所に思惑が仕込まれている妙がある。本殿の他にもそれを取り囲むようにして建物があり、その中に禅室や厨などがある。禅宗の設計思想らしいのだが、建物を身体に見立てて左右対称に配置し手足や頭の位置にそれぞれ意味を持たせている。その点とても思想先行の作りなのだが、上で述べたように審美的な趣もある。禅宗といえば禅の実践を重視する仏教思想だから、手放そうとしている思考に囚われているのでは?と思わなくもないが、思惑を感じさせる設計ではあっても、思索的というより空気感や美しさなど心身への効果として思想が反映されていると考えると腑に落ちる。

この日は一日中晴天で、雨晴海岸から眺めた立山連峰が寺の窓からも見えていた。仏教って意外と芸術にこだわったりして、解脱を目指してるわりにめっちゃ俗世に縛られてるよなぁと常々思っているのだが、遠景の山々を見ていると心を鎮める美しさというものがあることを思い出す。

 

 

金沢へ

同伴者にとっては普通の土日だったので翌日仕事に備えて帰宅。高岡で解散して僕は金沢へ。電車を見送った後、30分くらいの待ち時間を過ごした。知らない土地で急に一人になるというのは孤独感を強める。翌日以降も旅行するのだから落ち込む資格などないのだが、人間とはかくも非合理なもので楽しみな気持ちと寂しさは共存する。

高岡から金沢は在来線でも40分程度で着く。到着後はスーツケースを転がしながら初めて見る鼓門を興奮気味に見上げて宿へ向かった。そういえば手取フィッシュランドでのアイマスコラボの関係でフォロワーが近辺に来ていて、ある人が高岡でも数百メートル圏内にいた形跡があったのだが、今度は別の人が金沢にいた。どちらにも会わず仕舞いだったが、ちょっとだけ惜しいことをした気分だ。

北陸では魚介パーリィの予定だったのだが、氷見であれだけ食べて満腹なため、街中を散策して見つけたおでんの店で済ませた。金沢おでんという名前で知られているらしく、実際とても美味しい。特徴的な具材がある以外、他のおでんとどう違うのかあまりわかってないのだが、美味いものは美味い。

宿は超格安のカプセルホテルで、貴重品用の小さめな鍵付き保管スペースはあったが、部屋自体はシャッターを下ろすだけの簡易な区切りで、カプセルホテル初体験の身としてはけっこう新鮮だった。独り言しゃべりながらスーツケースを広げることは叶わず、初めのうちは窮屈かつ不安ではあったがじきに慣れた。