Final Fantasy X を買いました

表題の通りです。

先日switchでFFXを遊べることを知りまして、購入いたしました。経緯とか色々を書きなぐりつつ、後から振り返る狙いも込みで今日進めたところまでの記録を少し残しておこうと思います。

なのでブログ後半はネタバレを含みます。2〜3時間プレイした分程度ですが、ご注意を。

 

 

経緯など、周辺的なこと。

ご存知の方にはご存知のように、FFXのストーリーが新作歌舞伎として上演されています。ちょうど数日前に初公演となったようで、タイムラインでもちらほら感想を見かけています。

少し遠回りして事の発端をお話ししますと(これもご存知の方はご存知な話になりますが)今年の年始に僕は舞台を観に行きまして、そこでまぁどっぷりやられてしまったんですね。和久井優さんを目当てに行ってそれはそれは感激して帰ってきたわけですが、もちろん他の演者さんたちにも打ちのめされていました。『オンディーヌ』という舞台で、オンディーヌ役をしていたのが中村米吉さんで、まさにこの方が今回のFFX歌舞伎に出演されています。

『オンディーヌ』の時点で歌舞伎出身の方というのは認知していて、FFXの宣伝なんかもされていたのですが、いかんせんFFXをやったこともなく歌舞伎を観たこともなく、そして何より観たばかりの舞台に魂を持って行かれていたところでしたので、あまり関心を向けていませんでした。しかし公演がはじまって感想が流れてくると気になってくるもので、うずうずとしていたところにswitchでやれるということを知った次第です。

 

ゲームを買った時点で、気持ちとしてはもはや歌舞伎を観に行くところまで既定路線になっておりましたので、潔くチケットも購入しました。えらい高額ですが、どうせ納得するので大丈夫でしょう。

歌舞伎ファンからもFFXファンからも大絶賛されているようですし、中村米吉さんという時点で僕個人としての期待感も高いです。上演時間が7時間あるということで、気合の入り具合を感じさせます。そりゃあチケット代も高くなりますよね。払っちまったものは仕方ないのであとは楽しむだけです。無敵。楽しみ。

 

実は決断するまでの数日間かけて、youtubeに上がっていたゲーム実況的な動画でFFXの7割前後までは追っていました。最後までは見てないですが、ファンがつくのも納得な雰囲気を感じています。

それから「ゲームさんぽ」でFFXの音楽にフィーチャーした回があったので、それも見ました。音楽方面でも人気があるという話を仕入れた直後でしたので「ははーん?」と思いながら見ていたのですが、色々あさっているうちに名作と言っていいものだということは腑に落ちましたので、ひとまずはゲームを購入し、流れるようにしてチケット購入したという次第です。

 

内容に入る前にプレイしてみてのちょっとした感想なんですが、キャラクターを操作する場面がかなり少ないのに驚きました。ムービーを見ている時間が長くて、合間合間にちょいちょいっと操作が入る感じです。

そのため評判のいいBGMについても流れる場面は意外と限られていて、音楽に注目しようとしてみるとムービーと同じくらい短い出番な感じすらします。それが逆に美麗グラフィックで演出されるFFXの世界に音楽の力を借りつつ参加しているかのような体験になっています。多分。

 

プレイ感想

予告しておいたようにネタバレを含みます。

今日はキーリカ島をシンが襲うところまで進みました。

 

さっき見たばかりの場面なのでここから話してしまいますが、シンが浮上するときの津波海上の集落は壊滅し、シンが引き起こす竜巻で人々が上空まで飛ばされます。結果、多くの住民が亡くなり住居も失われてしまいます。自分は3.11で津波が車を飲み込む中継映像を見ていた人間ですから、この光景をフィクションとして受け止めることはかえって難しい気持ちです。

個人的な印象に過ぎませんが、3.11は国民全員が同じ感情を経験したということはなくて、それぞれに思うところを生じさせた災害であると感じています。たとえば自分の場合は幸いにして身近な人で死傷者はいませんでしたから心の傷とはなっていませんが、計画停電やしばらく友達と連絡がつかなくなったりといった具合にたしかに異常事態ではありました。しかしそこで感じたのはまったく大それたことではありませんでした。多くの人が亡くなって現に苦しい生活を強いられているにもかかわらず、自分が考えられるのは定期テストが延期になったことや友達が塾に泊まっていたことばかりで、自分の感受性に幻滅した覚えがあります。

そうした経験がありましたので、シンによる被害を目の当たりにしてユウナが「必ずシンを倒します」と強く気持ちを新たにしたのに対し、ティーダの方はもう一度シンに会ってザナルカンドへ帰るという希望が淡い期待に過ぎなかったことを痛感している対比にハッとさせられました。ティーダはこれほどまでの大きな事態を受けて個人的な問題に着地していて、自分のかつての経験を思い出しました。

しかしティーダの場合は、まだこの世界(スピラ)に馴染んでいないという面が大きいはずです。ザナルカンドへ帰るつもりである以上、ティーダの居場所はスピラにはありません。だからこそザナルカンドへ帰ることがそう容易ではないとわかったこの瞬間は、ティーダに孤独を突きつけるものであったのだと思います。亡くなった多くの人へ気持ちを向けることに一歩遅れるティーダは自分のことで手一杯な成長途中の青年とも言えますし、異邦人としての心細さを押しかくしながら過ごしている孤独な人間であるとも言えます。複雑な感情というやつです。

ティーダを通して客観的にみると大きな出来事を前に個人的な問題が噴出するのは、そう不義理なことではないと思えてきます。そして逆に思い知らされるのはユウナの器の大きさで、ここで他人のために震えながら覚悟を決められるのは見事です。船上でルールーに話しかけたときに「ユウナの旅を邪魔するなら、ただじゃおかないから」と言われ、ここにユウナを大事にする気持ちだけでなく、どこかリスペクトがこめられているように思われたのですが、付き合いの浅い僕はユウナの人柄に遅れて気付かされたのでした。

 

 

話は変わってティーダとワッカの異同も気になります。

ティーダは明確に父親ジェットを敵対視しています。しかし、父性への反発かというとそうでもなくて、ジェットという個人への反発であるようにも見えます。もちろんジェットが家族であるということで嫌いな人間との縁が切れない状況が生まれているのは間違いなく、父との付き合いとして大きな枠にはおさまる困難だとは思うのですが、「伝統的な家族観における父の役割」的なものを見出そうとするならば、それはむしろエボンの教えに対するワッカの態度に認められるように思えます。つまり、ワッカは「掟だから」とか「そりゃあ罪を償うのは人間にとって大事なことだ」などと言っているように、真実の見極めを教会という権威に一任しています。何も覚えていない(本当は知らないだけなのだがワッカにはそのように見えている)ティーダに対して「まさか祈り方まで忘れたわけじゃないよな」という反応をしており、エボンの教えに盲信的であることが伺えます。

ティーダがジェットとの衝突を心に抱えているのは、ある意味では問題が顕在化しているというような状況で、ワッカは伝統的な父親像じみた権威(=教会)に順応している意味で父との衝突をまだ経験していない状況にあると言えるかもしれません。

先のキーリカ島の場面でティーダについて、「シンにもう一度会って、そのあとはきっと何とかなるだろう」という安直な計算を自分がしていたことを突きつけられていると見ることもできます。この「あとは何とかなるだろう」は、あれもこれも先のことを考えてはいられない人間の防衛本能でもありますが、人の弱みでもあります。要するに教会の教えの言う通りにしていれば「きっといずれ未来はよくなるだろう(あとは何とかなるだろう)」というように自分で考えるのを放棄していることを黙殺して、存分に依存することができてしまいます。

主人公ティーダに注目して「父との関係」が一つのテーマとして掲げられるとして、しかしそこにはワッカの権威への依存が輻輳的に絡まってきており、なるほど一大スペクタクルであると痛感させられたプレイ1日目でした。