近況報告的、日記的

最近あんまりツイッターにいないな〜と思う分にはいいのだが、自分のことを言葉に留めておく機会が減っていることには衰えみたいなものを感じてしまうので、日記がてら最近の報告を書き残しておく。

どこからやればいいのかわからないので今月のまとめということで。

 

4日 誕生日

ひとつ歳を重ねただけと言えばだけなのだが、今年はちょっとただのプラス1というわけにもいかない節目にあたる。具体的な数字は一応ぼかしておくが……

思うところがある、ような気もするけど実際はあんまりない。考えるタイミングがこないうちに一ヶ月が過ぎようとしていると言った方が正しいか。今年の抱負とかも結局考えずに終わっちゃうことが多い。でも、今後の行く末について少し考える時間は取った方がいいんだろうなと思う。結論を出すことが大事なのではない。

 

11日 研ぎ

砥石を買った。包丁を研ぎたくなったから。研いだ。思いのほか難しい。

 

16日 登山

高校の同級生と登山した。昔はたくさん登っていたのだが、かなり久しぶりになってしまった。が、意外にもすいすいと登れたので筋力自体はそんなに衰えていないらしい。たまに走ったりしてたからかしら。ただし汗は死ぬほどかいたので、あやうく水分が足りなくなるところだった。頼るほどの経験も知識もないので一度登ったことがあるとこにしたのだが、まだ侮っていたらしい。危ない。

ちなみに他のメンバーに合わせたため自分は翌日も仕事になってしまったのだが、1日の労働で三日分くらい疲れた。翌日休みにすべき。

 

17日 パラノマサイト

セールになっていたゲームを買った。評判がよかったので。

 

18日 某

何かが起きた。楽しかった。

 

21日 研ぎ

包丁を研いだ。切れ味がたいして上がったように思えない。難しい。

 

23日 カラマーゾフの兄弟買う

ようやく2巻を読み終えたので3巻に突入。いつも買いに行っている本屋で4巻と5巻がなくなってたのでちょうど誰かが買ったところらしい。こういう長編は1巻は売れるけど途中で脱落する分、後半は残るものだと思うので珍しい場面に遭遇したと思う。

本編への感想はそこまではっきりないのだが、壮大さは感じ始めている。

 

25日午前三時 錦糸堀公園

本所七不思議の秘密を知る。錦糸町を訪れ各地を回る。

 

 

善悪の相対性

数年前からフォロワー数名と輪読会をやっている。

最近『ゴドーを待ちながら』を読み終え、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』を読んでいる。これが残念ながらあんまり面白くない。というよりも納得のいかない主張が多く、そのおかげでいろいろ考えるきっかけは絶えない。

先日読んだのは「月光仮面」という章で、「正義の味方になるためには、どうして仮面をつけたり、変装したりしなければならないのだろうか」という問いかけから始まる。問題設定は面白い。正義の味方は純然たる正義でなければならないけれども、同じ行為や同じ人間が正義でありかつ悪でもあるものだから、自らを正義と主張するためには人格を切り離さなくては成立しないのだ、という話の流れになる。そこからさらに、正義の味方が依拠している正義とは既製品であって、それを検討することなく受け入れるから純然たる正義があるかのような態度をとってしまうのだ、と批判するような調子が続く。

純然たる正義など存在しないというのはよくわかる。けれども、正義をめぐっての議論には独りよがりな言い分といった印象が否めない。最終的に「自らの正義をつくり出さなければならない、というのが私の月光仮面への最初の注文である」などと述べるのだが、これは明らかに詰めが甘い。たとえば、やまゆり園の障害者殺人事件の犯人は障害者は役に立たないのだから死んだ方が社会貢献であるという自分の正義感に則って動いているように思われるし、京アニ爆破や安倍元首相の殺害といったテロ行為も自身の正義感が犯人を突き動かしていた側面がありそうだ。仮にも正義を主張するならば公共性は担保されていなければいけないはずなのだが、「自らの正義感」を醸成することを主張するのみでは義憤にかられた暴走を許容しかねない。

寺山修司の文章は今のところ読んでいる他のも同様の雰囲気で、普通はこういう風に言われているけど、ホントはそんな常識は通用しないんだよね、と読者を釣り上げてから、常識とは正反対に振り切った主張を展開する。あたかも旧態依然とした価値観にとらわれている人間にはわからない世の中の真実であるかのような勢いで極論を振りまくのだが、(いや騙されんからな?)という気持ちを毎度抱く。

もし自分が若い頃に引っかかてたら大人になってから後々後悔しそうな男だなと思う。「普通」や「常識」を下げれば、無知蒙昧な民衆の見えていないものが見えている自分たちという構図は簡単に作り出せるものだ。そういうやり方で自分を物事のわかっている人間と思い込んでいるのだとしたらほとほと浅ましい。他の戯曲とか詩とかがどうなってくるのかはわからないけれども、エッセイは相当期待はずれであった。

月光仮面」の話に戻せば、正義と悪は截然と分けられるものではないという主張を誰が受け入れないというのかと思う。聡明な読者だからわかると思うが……という雰囲気で書いている(と読むのは偏見がすぎるかもしれない)が、大抵の人間はいうまでもなく納得するものではなかろうか。問題はたとえば「正義と悪が渾然一体となってしまうならば、正義であるためにはどうしたものか」というように進んでくるし、そちらの議論こそが重要であるはずだ。寺山修司は前述のように自分の正義を作ること程度の脇の甘い結論を出すのみである。そこに説得力が出ているとすれば、通じ合った君と僕ならきっと伝わるとおり然々で……と前提条件への納得感で煽った共感を原動力としているからに過ぎないように見える。手厳しすぎるだろうか。

ともあれ、この話を取り上げたのは何も寺山修司の悪口を言うためではない(念の為言っておけばの戯曲はいくつか好きなものもあるので、まだ本への期待は捨てていない)。同時並行で読んでいる本で悪と正義の不分明さに対する面白い見解が提示されているのを見かけて、ちょっと考えてみたくなったからだ。

『世界は文学でできている~対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義~』という本で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を訳し、今更のブームを引き起こした亀山郁夫さんとロシア文学研究者の沼野充義さんの対談から少し引用する。現代日本文学へのドストエフスキーの影響はどれくらいあるのか、ドストエフスキーはなぜ現代においても読むに値するのか、という問いに対して「善悪の相対性」に着目した亀山さんの回答だ。

 

たとえば「いじめ」を語るにしても、いじめられる側だけに理屈があるのではなく、いじめる側にも理屈がある、という善悪の相対化と言いますか、そういった視点が出ている。問題は、そうした視点で作家が書いているということではなく、物語の登場人物の中にすでにそうした相対性の観念が埋め込まれているというところです。これは、むろん深くニヒリズムに通じ合っていますが、現代の社会を見るまなざしに、このニヒリズム以外のものがあるとして、ではどんな希望の原理を据えることができるというのでしょうか。そもそもそんなことは不可能かもしれない。(中略)フィクションそのものに、人間の情動を根源的に揺り動かす何かがあれば、それ自体が希望です。生命の蠢きを瞬間的に可能にする何かの力があれば。上っ面な希望は要らない。文学の使命はもはやそんなところにはないと思うんですよ。

(pp.330-331).

 

続けて「いまは善と悪の境界線が見えなくなったと言われますが、実は善は見えている。見えているけれども、悪との境界をはっきり引くことに意味がなくなってしまっている」とも述べる。ある行為がこちらから見れば善(正義)であっても、別の立場からは悪意を読み取られてしまうことは想像に難くない。老人に電車で席を譲っても、本人からすれば老人扱いされたとプライドが傷ついているかもしれない。経費を抑えるために安い製品を購入したが、頻繁に壊れるようになれば社会に出回るゴミを増やしてしまうことになる。しかしそんなことばかりならば、何が正しいのか考えても無駄ではないかと思いかねない。だけれども、それは何が本当の正義なのかを考えることに固執しているからなのかもしれない。寺山修司が正義について吟味する必要を訴えていたのも、純然たる正義は存在しないと言いながら何ならば純然たる正義と言えるのかを考えようとしていたと整理しなおすこともできそうだ。問題はそこじゃない。正義や善について完璧なものなど存在しないとしても、考えることは残っている。具体的に何と言われれば難しいけれども、考えることが残っているというのは大事な気づきに思われる。じゃあこういう方向を目指せばいいんだという指針は、おそらくいつまでも示せないのだが、善悪が曖昧であるその場所にとどまって考えた結果が劇的であれば、それはなにかすごいことなのではないかと思う。

なお引用には別の文脈があるので、亀山さんの発言としてはドストエフスキーが善悪を裁く神がいない時代において生きるとはどのようなことかを問うているからこそ現代においても強い魅力があるのだという話になる。本当の正義を考える代わりに起きるなにかすごいこと程度のビジョンしか見えていない今、ドストエフスキーは「なにかすごいこと」への期待度は高く、読むモチベーションが高い。そしてこの駄文の落ちなのだが、さっそく『カラマーゾフの兄弟』を購入してきた。もちろん亀山郁夫訳である。

空中戦じゃ分が悪い

冬優子のセリフ「ふゆたちは空中戦じゃ分が悪すぎるでしょ……!」が長らくネットミーム化していた。もう話題にされなくなってきた頃なので言うのだけれども、実はひそかに気に入っている。と言っても別に「これ公式で言ってんだぜやべーだろガハハ」みたいなアレではなく、変な話、日頃から「空中戦だと分が悪いな~」と思うことが時たまあって、便利なワードとして脳内独り言でよく使っている。

 

具体的には思考スタイルについての比喩として便利に使っている。

僕はご覧のように文章を書いて色々考えるタイプの人間で、テクストとして思考を外に置いておくことができるという点をすこぶる便利に感じている。たとえばある主張を自分の中で持っていて、実際自分が何を考えているのか・正当性はいかがなものか・根拠は十分か……などについてセルフチェックも兼ねて深めていきたいとする。

文章として出す場合、完成品は「前提→主張→根拠→譲歩(想定反論)→それへの反論→主張繰り返し」のようなかたちになりうる。しょうもない例でいくと、アイスは食べたくなるけど毎日食べない方がいいんじゃないかな〜と感じているこの直感を深めるとしよう。

 

「アイスは毎日食べるべきではない」

最近の日本は死ぬほど暑く、アイスは手軽に涼をとれるし美味しいからつい食べてしまいたくなる(前提)。しかしアイスは毎日食べるべきではない(主張)。なぜなら、糖分や脂質が過多になり健康を害するし(根拠1)、体を冷やすには他の手段の方が効果的であるからだ(根拠2)。たしかにアイスには健康被害となるほどの脂質は含まれていない(根拠1に対する譲歩)。しかし、それは一本二本食べた場合であって、毎日食べるとなると事情は異なる(譲歩への反論)。また、一時的にであっても涼をとれるのであればアイスは暑さ対策に有効であるという主張もあるだろう(根拠2に対する想定反論)。しかし、身体の熱をとりたいのであれば適切な水分補給や冷えたペットボトル飲料を身体に当て続けることが有効であり、アイスを選択する積極的意義はないはずだ(想定反論への反論)。したがって、アイスはあくまで嗜好品として位置付けるのが適切であり、毎日食べるべきではないのだ(主張繰り返し)。

 

というような文章があるとしよう。文章の優れているのは、一旦出力してしまえばもう一度頭の中で再現する必要なく、自分の考えと向き合うことができる点にある。ここでは最後の「あくまで嗜好品として位置付けるのが適切であり」というところに主張の甘さがある(アイスだけに)とわかる。コーヒーは嗜好品なのに毎日飲んでいるわけで、「嗜好品だから」は理由としては弱く、検討していないまま根拠として出していることに気づける。というよりも、事前に2つ並べたはずの根拠のどちらとも関係なく新たに出してきてしまっている。だとすれば最後の主張の部分では

「したがって、体を冷やすためというのはアイスを食べる口実に過ぎないのであり、食べるのであれば健康を守れる範囲で食べるべきである。以上の条件を考えると、アイスは毎日食べるべきではないのだ」

くらいにした方がよく、こうするとそれまでの文章とうまくつながる。

 

以上は他人に読ませる文章にするうえでのブラッシュアップの作業だが、それ以前にこの短い文章ではいくつもの論点を取りこぼしていることに、書きながら気づいたりしている。単純に金銭的に負担が大きくなってきてしまうという事情は加味していないし、根拠として挙げた健康への影響も具体的には何もわかっていない。だから次には金銭面での負担が実際にはどれほどのものかを検討したり、健康への影響がどれほどのものか(お酒みたいに嗜む程度ならばかえってOKというような主張はないだろうか)などと考えを進めていける。文章によって考えるというのは、次の思考のための足がかりを用意しながら登っていく感覚である。上の文章はそういう生煮えの状態、まだ固めるべきものを固めていないままの文章なので、自分の主張ではあるけれども自信をもって正しいとは思っていない状態にある。考えるための足場としての文章になる。だから読ませる用のブラッシュアップをする段階ではないのだけれど、ブラッシュアップ自体が生煮えの思考を煮詰める作業でもあったりして、一連のあれこれのことを「文章で考える」と呼んでいる。

 

で、僕はこれを脳内でできないということを常々歯がゆく思っているというのが本題になる。

セルフ添削コーナーで取り出したのは最後の主張繰り返しパートだが、これは外部に出力しておいたから見直すことができたわけで、脳内で「嗜好品だから云々」のテクストを手元に置いた状態で「いや、そこ変じゃない?」と小脇に抱えておいた根拠1と2のテクストを引っ張り出してくるような器用な真似ができない。頭の中で書いておいたちょっと前の文面を短期記憶しておくことが苦手という感じ。ともかく、一度文章のかたちで地面に置いて足場を組み立ててからあれこれ考えることに慣れたせいで、文章に書き留めておかずに空中で複雑なことを考えるのがどんどん苦手になっている。

具体的には散歩をしながらとか、メモをとらずに本を読むときとか、誰かと話しながら色々考えなければいけないときとか、日常的にはしばしばペンなしで考えなければならない場面が発生する。というかその方が多い。文章で考えた方が複雑な物事に対処できるという話に過ぎないのかもしれないけれど、文章に甘えることを覚えてしまったせいか、すべて脳内で完結しなければいけない空中戦では、文章に慣れていない他の人よりも分が悪いんじゃないかということをよく思う。

そういうわけで「空中戦じゃ分が悪い」というフレーズを非常に共感的に受け取っている、というか比喩としてとてもしっくりくるから密かに愛用している。

 

(これは完全に余談なのだが、『プレゼン・フォー・ユー』の再現記念写真で僕は冬優子の立ち位置だった。他にも辛いものを好んで食べたりとすごく遠回りに冬優子に親近感を抱いているのだが、空中戦~~も冬優子のセリフなのであまり本人に喜ばれなそうな縁を感じる)

 

 

 

と、空中戦に苦手意識の強い人間なのだけれども、よく考えれば昔は文章なんか全然書かない人間だったし、囲碁が好きで何手先を読むみたいな頭の使い方はなんなら得意だった気もする。これはどうしたもんだろうかと思うのだが、自分一人で考えるときにひたすら文章で考えるようになったのは大きいかもしれない。それから電車の中や行き帰りの徒歩で頭を使う代わりに本を読んだり音楽を聴いたりするようになったのもたぶん大きい。

結論は出ないけれども「どうしたもんかなぁ~」という気持ちは常にくすぶっており、長らく着地点を得ていない。たぶんスマホ使いまくるのをやめた方がいいんだろうとか、周辺的なことを細々と思いついてはいるけれども、もっとクリティカルな何かが足りていない。そんな予感。

「顕神の夢」展

某フォロワーさんが珍しく強くおすすめしておられた「顕神の夢」という企画展に行ってきました。

www.watv.ne.jp

全国の会場で一定期間展示をしてまわる企画のようで、今は栃木の足利美術館で展示をしています。期間のうちでは終盤にさしかかっていてタイミングによっては行けなかったかもしれないくらいですが、見れてよかったです。とても。

 

この企画展では、神をみてしまい作品を作らざるを得なくなってしまった人や向こう側を探求した人などの作品を集めています。モダニズムでは評価されない作品を霊性の尺度によって受け止めるといった書き方で企画コンセプトが説明されていました。なるほど画力であるとかメッセージ性であるとかの観点だけを重視すれば、これらより優れた作品はおそらく世にたくさんあるのだろうことは素人目にも何となく分かります。そのうえで、理由は分からないが兎にも角にも圧倒されてしまう作品があることは、それ以上に確かに理解できるところです。

 

感想を言いたい作品がいくつもあって、実際一緒に行った母とは展示を見終えてから色々話したりもしたのですが、一方であの場で感じたことは表に出さないでおきたいとも思っていたりと当たり前に矛盾を抱え込んでおり、自分が動揺させられているのを感じます。

具体的にいくつかの作品について何がどうよかったのか(うっかり)分析的に考えてみては、新たな気づきや発見があって何かが深まっていく感触がたまらない反面、なるべくならば理解不能な塊として生き生きと現前していてほしいという気持ちもかなり強く、そうなってしまっているのはやはり心撃たれたからなのだと思います。描いている人自身がなんでこんなもの描いているのか心当たりがないといった様子であったりするのだから、出来上がった作品はこの世の異物というべきか、本来的に困らされるべき代物なのかもしれません。

 

気になる作品はおそらく人それぞれに異なるもので、僕が深くとらわれた作品を別の誰かは平然と通り過ぎるなんてことは(その逆も)普通に起こることと思います。今日と数年後で見方がまるっきり変わるのもありそうなことです。

同じコンセプトのもとで多種多様な作品が集まるという意味では本屋にぶらっと立ち寄っていい感じの本に出会うみたいな経験に近いものがあります。美術館の展示も自分の感性を試す好機だなと思いつつ、しかし今回の企画に関しては鑑賞経験のパンチ力に凄まじいものがあり、人におすすめしてまわりたいレベルでした。

足利だと残り期間短めですが、興味があって行く余裕があるなら行った方がいいです。

今月の詩

以前にも話題にしましたが、詩集から二編を選んで私選詩集を作ろうの会に参加させてもらっています。

今月は西沢杏子さんの『虫や草やあなたやわたしやむしゃくしゃや──西沢杏子詩集』が課題図書でした。

d21.co.jp

 

 

飛んでいる蚊を叩こうとする

今月の一編目はこちらです。「飛んでいる蚊を叩こうとする」がタイトルです。

詩集全体を通して、スルーしてしまいがちだけどこれって傷つける行為だったりするよね……という方面への繊細さが発揮されているような印象でした。その中で共感できるものもできないものもあったわけですが、この詩はまるまんま自分で気にしてることでした。

蚊を潰して「やったー」と喜ぶのは普通であるけれど、命をとる行為で喜ぶってなんなんだと違和感を覚えることが度々あります。だけど、あんまり強く誰かを批判する資格もなくて……というはっきりしない心持ちを描き出されたような詩でした。

 

蚊だってよく見てみれば複雑な構造をしていて、生まれるまで色々があった一個の命であって、もし心みたいなものがあって我々みたいに生きていたとしたら、その生涯をあっさりと途絶えさせるのって本当は大変なことなんじゃないのと思うことがあります。

特に自分の場合はそこまで痒くなるわけでもないし、日本では蚊が媒介する疾病がそんなに深刻でもないしということで、なるべく蚊を潰さないようにしています。捕虫用にプリンのカップみたいなものを常備していて、捕まえては外に逃がすのですが……

 

本当はこんな風に逃がしても誰かが代わりに刺されて誰かが代わりに殺す可能性が少なからずあることには気づいていて、そういうことに気づいた弱さで寝る前とかの面倒くさいタイミングで登場したときには叩き潰すこともあったりもするわけで、自分の生半可さを意識しないわけにはいきません。

そもそも生き物を殺すその瞬間には関与していなくても、食品というのはすべて殺しの成果物ですから、蚊を殺さないということで守れる主張はほとんどないことにも気づいています。日本にはマラリアなどがないとは言ったものの、今後出てきた場合に自分はどうするのか、全然考えていないですし、大義名分を得て清々としながら容赦無く蚊を叩き潰していてもおかしくありません。

その程度の気持ちでやっている善行は決して胸を張れるようなものではなく、けれども気軽に生き物を殺してあまつさえ楽しむようなことへの違和感は失ってはいけないという風にも思っており、しかしそれは信念と呼ぶにはあんまりな出来映えで、自分の生き様が裏打ちしていないからというのが一個の理由であろうとも思います。

 

そういうどっちつかずな迷い方を見事に取り出されたのがこの詩でした。

蚊を叩き潰すことについて「あさましくない? さもしくない? はずかしくない?」と問いかけながら、最後の最後で「マラリアになったら………… そのときになって考えませう」と急転回して締められます。

 

この一節で複雑で割り切れない思考の筋の絡まりが一挙に表現されています。

生き物を殺すことへの抵抗や主張が本当はまったく綿密に用意できてなどいないことや、自分自身に危害が及ぶならば躊躇がなくなるかもしれないこと、逆にそこに至ってもなお不殺を貫く可能性が残っているほどに抵抗感が大きいことなど、自分の中にあってそれぞれ矛盾する主義主張が簡潔に表現されていて、見事な手腕です。

思えば、シャニマスで一時期話題をさらった「生きてるってことは物語じゃないから」という言葉も何か言い知れぬ思考を不明瞭なままに鋭く表現していました。

人間の思考というのは決して合理的ではないし、自分としては頭の中で論理的に考えているとみなすのは不自然だと思っています。われわれはもっとぼやぼや考えていると思うのですが、そのぼやぼやをなるべく変質しないで形を与えるのが詩のなせる技の一つであったかと気付かされました。詩的表現っていうのは何も感性的なものに訴えかけることに特化していなくてもいいというのは発見でした。

 

 

ブルー

今月の詩の二編目。アジサイが全身ブルーで、ふさいでいるワタシもブルーで、そこから「ヒトの身体の一部にもアジサイ色があるのです」「無口なアジサイがぼってりとワタシに話してきかせます」といって終わる短い詩です。

落ち込んでいるときのブルーというのは言われてみればちょっと不思議で、たしかに寒色系は静かめな気持ちと合いますが、世にある青色がどれもこれも沈鬱な感じであるかというとそんなことはありません。

アジサイの青色はどうでしょう。どちらかというとたしかに重めな感情と似合うかもしれません。ユリみたいに華奢で上品でもバラみたいに華やかな雰囲気でもありません。カタマリって感じの花なので、青系の色合いとなると明るく前向きな気持ちとは縁遠いかもしれない。けれども落ち込んで下向きになると言うには、アジサイの花はまさに「ぼってりと」していてふてぶてしく見えます。落ち込んで沈んでしまいそうになるブルーな気持ちをアジサイ色と言い張られると、そういう気持ちも美しくありうるんだよなと思ったりして、すぐ落ち込んでしまう自分自身の脆さそのものにさらに落ち込む負の連鎖には陥らないで済みそうな気がしてきます。

 

ツイッター以外のSNS と discord運用

連絡先

ご存知の通り、いよいよツイッターの仕様変更がめちゃくちゃになってまいりました。実際のところツイッターが使えなくなって人とのつながりを失うレベルにまではいかないと高をくくっているのですが、それにしても逃げ先はいくつか用意しておくに越したことはないですので、いい機会ですので自分の使っているアカウントを提示しておきます。

 

マストドン:アカウントを持っているのみ。不使用。

https://mstdn.jp/@hitomi_motomi

 

インスタ:動植物の画像を投稿したりします。虫も写ってるので苦手な人は注意です。

https://www.instagram.com/natsume.for/

 

Note:投稿は可能。メッセージのやりとりはたぶんできないです。コメントはつけられます。

https://note.com/neffle

 

はてなブログ:ご覧の通り。メッセージのやりとりほぼ不可。コメントはつけられます。

 

これらに加えてdiscordのサーバーを立てるかどうかを考え中です。

discordについては後述します。

 

 

今後の運用方針についてですが、特にこれまでと変わらないと思います。上の各種サービスにおいて、僕はそれほど活動的ではありません(最近はツイッターでもそれほど活動的ではありませんが)。ここで無理をしてもしょうがないので、動かし方は変えないと思われます。

色々見て回って思うのは、ツイッターっぽいことは今の所ツイッターでしかできないということで、ミスキーやブルースカイの登場などによって変わってくるかもしれませんが、現状ではツイートをする場所を探すのは保留とします。今後変更があれば追記する予定です。

 

現在のツイッターの使い方としては大まかに「自分でつぶやく」と「人のつぶやきをみる」の二通りがありまして、最近はどちらかというと後者の方が多いです。これに不自由しているのが嫌なところで、かつ、みなさんの移行先ができたとしても一箇所ではないだろうことが次の場所を探す足取りを重くする要因でもあります。これについてはなるようになるしかないので静観の構えです。

そして自分で何かを投稿する場所がとっちらかっているのは現状でだるいところでして、自分の場合は、煮詰めていない文章ははてなブログ・しっかり書くのはnote・植物まわりの画像投稿はインスタ・大量に存在するその他の言及はツイッターという感じの使い分けを一応しています。これ以上場所を分けるのはちょっとやりづらいので、これもSNSを追加することに消極的な理由となっています。

ツイッターを使う上での主要な用途についてはほとんど対応できないのですが、ツイッター上でできたつながりについては残しておきたいという気持ちにはやりようがありますので、冒頭にあるように今使っているSNSを列挙しておきました。

 

 

discord

さて、現状ではできることは全てやっており、ツイッターっぽいことをする方面の期待はほぼしていないわけで、そうなってくるとこれ以上のことは十分な目的を与えられないわけですが、それでもなおdiscordの自分のサーバーを立てようかどうしようか考えています。

人とのつながりのためだけにサーバーを立てるならば、IDを貼っておけば足りますし、ツイート代わりの投稿を自分のサーバーでしてもらうにしても、投稿先を分散させるのを面倒だと感じている人間が主催してやることではないだろうとも思います。今やいろんな人が自分のサーバーを立てていて、わざわざ僕のサーバーを選んで何かを共有するインセンティブはほとんどありません。

 

要するにサーバーを立てる意味がないのですが、しかし全ての物事に目的が必要だとは思っておらず、いわば無目的に立ててみるのは遊びがあっていいんじゃないかとも考えています。目的を放棄することで一つの思いつきがあります。

箱がドンとあっても自由度が高すぎて何もできないので、いくつかのルールを設定する必要があると思うのですが、そうすることで「目的はなく傾向だけがあるような場」を用意できるのではないかというアイデアです。各自に自由に使っていただくことで、その場所がみずからの存在価値をおのずと見つけていくことを期待できないだろうかと、そういう話です。

 

これは自分が生態学を最近好んで勉強している影響です。自然には合目的的に思えることがいくつもありますが、それらは設定した目的に合うように調整されたのではなく、無数の生物や自然現象の都合が互いに調整しあってしかるべきところに落ち着いた結果、極めて合理的に見える状況に至っているのだ、と自然の変遷をとらえる考え方があります。僕としては目的を先行させるよりも自然と落ち着くところに落ち着くという見方にシンパシーを感じますから、ちょっとそういうことをしてみたいという気持ちもあり、discordのサーバーのアイデアにつながっています。

では、サーバーを立てるとしてどのようなルールがいいかということですが、たとえば「投稿字数を300字以上」「一つ前の投稿に対して脈絡ない投稿をしなければならない」などを考えています。何をするかまでは縛らない、緩やかな制限です。

そういうのが三つくらいあるといいのかなと思いつつ、多すぎるのはどうかなとか先に全部決める必要もないかもとか考えてます。クラピカの念能力みたいに後で一つ追加する用に残しておいてもいいわけですし。

 

自分のnoteやブログに散らばった投稿を一元的にそこにまとめるのも考えましたが、自分だけが特別扱いされなくていいかとも思い……

と、色々考える要素はたくさんありますが、やっぱり見切り発車でサーバーを立ててみようかと思います。各種ルールはサーバー内に用意してありますのでそちらをご参照ください。自由に抜けてもらってかまいませんし、ある日突然消滅するかもしれません。

discord.gg

このリンクは7日間限定らしいので、期限を過ぎてから参加希望の場合はお声がけください。

瘡蓋と詩情

ヤマイさんが主催された、某企画に参加させていただいております。

月に一冊の詩集を決めて、そこからお気に入りの詩を二作品選んで年間で二十四作品からなる私選詩集をそれぞれが作ろうという企画です。向こう一年はメンバーを増やさずやっていく予定とのことで、募集時期を見逃さずに済んで一安心でした。

 

今月は『通勤電車でよむ詩集』で、詩人でもある小池昌代さんによるアンソロジーです。

通勤電車でよむ詩集 / 小池 昌代【編著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

 

それで結局選んだのは「ひとつでいい」と「少女と雨」という作品でした。その過程で色々考えたので、選んでいないものにもちょっと言及しつつ、色々を書き残しておこうかと思います。

 

「ひとつでいい」トーマ・ヒロコ

この詩は内容としては明確かつ単純です。色々な挨拶があるけれども他のものはもう要らなくて、ただ「お疲れ」だけで事足りている、というようなことを言っています。しかしこれを「主張」とみなすのは言い過ぎでもっとぼやきとか弱音に近いものに感じます。

「ありがとう」は相手との関係を続けていく努力でもあり、「おはよう」はあなたとの会話を始めたいというメッセージでもありうるわけで、そういう肯定的な言葉たちを「もう要らない」と言ってしまう投げやりさは、ちょっと正直すぎます。しかし正直すぎるあまり、こちらとしてはいやが応にも共感してしまう。その共感は不本意で、だけど本音を見せつけられている以上は、拒否するわけにもいきません。そういう気持ち悪さがあります。

なんとなく無視することもできなくて、この詩は読み終わった後からどうにも気にしてしまい、どんな意味であれ心に残ったものということで今月の詩に選んでみました。

 

人間関係を維持・構築するためにコストがかかるのは本当なのだけど、それに伴う疲労感が勝ってしまうのは、もう最初から疲れすぎているような気もしていて(自分はそんなに嫌々生きていたんだっけ……)と、色々考えてしまいます。考えて"しまう"というのが個人的にはしっくりきていて、意図に反して考えてしまうこの感じがやはり気持ち悪いです。

詩につられて比喩で想像したくなるのか、この作品は瘡蓋みたいだなって思ってます。生傷ほどは痛々しくないけれど、なめらかで健康な皮膚みたいに気に留める引っかかりがないとは到底言えない。まだ古傷にもなれていない現役バリバリのわだかまり。そういうものを今月の詩の片方に据えてみました。

 

 

「孤独な泳ぎ手」衣更着信

ところで、詩というはもっと抽象的でよくわからんものなイメージでした。

「ひとつでいい」は随分と地に足ついた実情を描き出しているように思います。それとは逆に現実みたいなものを超えた何かに触れていくことも目指して、対になる作品を選んでみようと考えてみました。

そういうコンセプトで考えていくなかで気になったのが「孤独な泳ぎ手」というこの作品でした。最終的に選んではいないのですが、物質的な世界の中で捉えがたいものを捉えようという雰囲気で、自分が詩を選ぶうえでのひとまず置いているコンセプトに近しいためちょっとだけ紹介してみます。

 

他の詩に比べて文量が多く、日記のようなフランクな文体で、感覚的というよりは思索的です。これも内容がまぁまぁはっきりしていて、いわしの群れのなかを泳いだ経験を綴っています。群れは筆者を迎え入れてくれて、だけど自分がどう泳いでも魚は確実に避け、包まれているのにそれに触れることは叶わない。振り返りながら、そのときに思い浮かべていたのはlifeでしたと言います。

その真ん中にいるのにさわれないんですよ、lifeは──

「ひとつでいい」にあったように、僕らはめちゃくちゃ人生について悩んでいて、とても疲れてしまっているのが本音じゃない?と突きつけられてギクッとしてるのに、他方で人生なんてものの本体を全然つかめた試しがないと言われて納得してしまいたくもなるのは不思議です。

リアルな世界の本音を描き出すのが詩の得意分野であるとして、詩に抱いていた抽象的で感覚的で小難しいものというイメージが示すように、リアルを離れて見るも触れるもできない「本物」を模索することも詩の得意分野であるような気がします。

 

その点では「見えない木」という詩も面白くて、最後の一節が

ぼくは 見えないリズムのことばかり考えている

と、見えないもののことを視覚的ではないリズムという語に結びつけていています。こういうのは明晰な論旨や客観性を要求されず、言葉による飛躍ができる詩の強みだろうと思います。

さわれないlifeや見えないリズムのような何かを捉えるための詩を選ぶとして、どの詩にしようかというときには、やっぱりなんとなくいいな〜と思った作品にしておくことにしました。「ひとつでいい」が自分が気持ち悪くなるチョイスであるとすれば、今度は自分が気持ちよくなるチョイスになります。それが「少女と雨」でした。

 

 

「少女と雨」中原中也

中也の詩はアーカイブがネットにあるためリンクを貼っておきます。

zenshi.chu.jp

 

これ、実はあんまりわかってなくて、本当に「なんかい〜な」くらいしか思ってないです。ただ向こう側に何かを見出そうとしているのはわかるもので、校舎とか花畑とか具体的な場面のもとで叙情的な景色が描かれているのですが、それらが「やがてしづかな回転をはじめ」少女が佇んでいる花畑以外の一切が「みんなとつくに終わつてしまつた 夢のやうな気がしてきます」という一節で終わります。

リアルな事物のそれぞれが「やがてしづかな回転をはじめ」終わってしまう一方で、夢とそう変わらない事物のなかで花畑だけは真実であると叙情的に納得させる力があり、なんとなくながらもお気に入りの詩となっております。