瘡蓋と詩情

ヤマイさんが主催された、某企画に参加させていただいております。

月に一冊の詩集を決めて、そこからお気に入りの詩を二作品選んで年間で二十四作品からなる私選詩集をそれぞれが作ろうという企画です。向こう一年はメンバーを増やさずやっていく予定とのことで、募集時期を見逃さずに済んで一安心でした。

 

今月は『通勤電車でよむ詩集』で、詩人でもある小池昌代さんによるアンソロジーです。

通勤電車でよむ詩集 / 小池 昌代【編著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

 

それで結局選んだのは「ひとつでいい」と「少女と雨」という作品でした。その過程で色々考えたので、選んでいないものにもちょっと言及しつつ、色々を書き残しておこうかと思います。

 

「ひとつでいい」トーマ・ヒロコ

この詩は内容としては明確かつ単純です。色々な挨拶があるけれども他のものはもう要らなくて、ただ「お疲れ」だけで事足りている、というようなことを言っています。しかしこれを「主張」とみなすのは言い過ぎでもっとぼやきとか弱音に近いものに感じます。

「ありがとう」は相手との関係を続けていく努力でもあり、「おはよう」はあなたとの会話を始めたいというメッセージでもありうるわけで、そういう肯定的な言葉たちを「もう要らない」と言ってしまう投げやりさは、ちょっと正直すぎます。しかし正直すぎるあまり、こちらとしてはいやが応にも共感してしまう。その共感は不本意で、だけど本音を見せつけられている以上は、拒否するわけにもいきません。そういう気持ち悪さがあります。

なんとなく無視することもできなくて、この詩は読み終わった後からどうにも気にしてしまい、どんな意味であれ心に残ったものということで今月の詩に選んでみました。

 

人間関係を維持・構築するためにコストがかかるのは本当なのだけど、それに伴う疲労感が勝ってしまうのは、もう最初から疲れすぎているような気もしていて(自分はそんなに嫌々生きていたんだっけ……)と、色々考えてしまいます。考えて"しまう"というのが個人的にはしっくりきていて、意図に反して考えてしまうこの感じがやはり気持ち悪いです。

詩につられて比喩で想像したくなるのか、この作品は瘡蓋みたいだなって思ってます。生傷ほどは痛々しくないけれど、なめらかで健康な皮膚みたいに気に留める引っかかりがないとは到底言えない。まだ古傷にもなれていない現役バリバリのわだかまり。そういうものを今月の詩の片方に据えてみました。

 

 

「孤独な泳ぎ手」衣更着信

ところで、詩というはもっと抽象的でよくわからんものなイメージでした。

「ひとつでいい」は随分と地に足ついた実情を描き出しているように思います。それとは逆に現実みたいなものを超えた何かに触れていくことも目指して、対になる作品を選んでみようと考えてみました。

そういうコンセプトで考えていくなかで気になったのが「孤独な泳ぎ手」というこの作品でした。最終的に選んではいないのですが、物質的な世界の中で捉えがたいものを捉えようという雰囲気で、自分が詩を選ぶうえでのひとまず置いているコンセプトに近しいためちょっとだけ紹介してみます。

 

他の詩に比べて文量が多く、日記のようなフランクな文体で、感覚的というよりは思索的です。これも内容がまぁまぁはっきりしていて、いわしの群れのなかを泳いだ経験を綴っています。群れは筆者を迎え入れてくれて、だけど自分がどう泳いでも魚は確実に避け、包まれているのにそれに触れることは叶わない。振り返りながら、そのときに思い浮かべていたのはlifeでしたと言います。

その真ん中にいるのにさわれないんですよ、lifeは──

「ひとつでいい」にあったように、僕らはめちゃくちゃ人生について悩んでいて、とても疲れてしまっているのが本音じゃない?と突きつけられてギクッとしてるのに、他方で人生なんてものの本体を全然つかめた試しがないと言われて納得してしまいたくもなるのは不思議です。

リアルな世界の本音を描き出すのが詩の得意分野であるとして、詩に抱いていた抽象的で感覚的で小難しいものというイメージが示すように、リアルを離れて見るも触れるもできない「本物」を模索することも詩の得意分野であるような気がします。

 

その点では「見えない木」という詩も面白くて、最後の一節が

ぼくは 見えないリズムのことばかり考えている

と、見えないもののことを視覚的ではないリズムという語に結びつけていています。こういうのは明晰な論旨や客観性を要求されず、言葉による飛躍ができる詩の強みだろうと思います。

さわれないlifeや見えないリズムのような何かを捉えるための詩を選ぶとして、どの詩にしようかというときには、やっぱりなんとなくいいな〜と思った作品にしておくことにしました。「ひとつでいい」が自分が気持ち悪くなるチョイスであるとすれば、今度は自分が気持ちよくなるチョイスになります。それが「少女と雨」でした。

 

 

「少女と雨」中原中也

中也の詩はアーカイブがネットにあるためリンクを貼っておきます。

zenshi.chu.jp

 

これ、実はあんまりわかってなくて、本当に「なんかい〜な」くらいしか思ってないです。ただ向こう側に何かを見出そうとしているのはわかるもので、校舎とか花畑とか具体的な場面のもとで叙情的な景色が描かれているのですが、それらが「やがてしづかな回転をはじめ」少女が佇んでいる花畑以外の一切が「みんなとつくに終わつてしまつた 夢のやうな気がしてきます」という一節で終わります。

リアルな事物のそれぞれが「やがてしづかな回転をはじめ」終わってしまう一方で、夢とそう変わらない事物のなかで花畑だけは真実であると叙情的に納得させる力があり、なんとなくながらもお気に入りの詩となっております。