空中戦じゃ分が悪い

冬優子のセリフ「ふゆたちは空中戦じゃ分が悪すぎるでしょ……!」が長らくネットミーム化していた。もう話題にされなくなってきた頃なので言うのだけれども、実はひそかに気に入っている。と言っても別に「これ公式で言ってんだぜやべーだろガハハ」みたいなアレではなく、変な話、日頃から「空中戦だと分が悪いな~」と思うことが時たまあって、便利なワードとして脳内独り言でよく使っている。

 

具体的には思考スタイルについての比喩として便利に使っている。

僕はご覧のように文章を書いて色々考えるタイプの人間で、テクストとして思考を外に置いておくことができるという点をすこぶる便利に感じている。たとえばある主張を自分の中で持っていて、実際自分が何を考えているのか・正当性はいかがなものか・根拠は十分か……などについてセルフチェックも兼ねて深めていきたいとする。

文章として出す場合、完成品は「前提→主張→根拠→譲歩(想定反論)→それへの反論→主張繰り返し」のようなかたちになりうる。しょうもない例でいくと、アイスは食べたくなるけど毎日食べない方がいいんじゃないかな〜と感じているこの直感を深めるとしよう。

 

「アイスは毎日食べるべきではない」

最近の日本は死ぬほど暑く、アイスは手軽に涼をとれるし美味しいからつい食べてしまいたくなる(前提)。しかしアイスは毎日食べるべきではない(主張)。なぜなら、糖分や脂質が過多になり健康を害するし(根拠1)、体を冷やすには他の手段の方が効果的であるからだ(根拠2)。たしかにアイスには健康被害となるほどの脂質は含まれていない(根拠1に対する譲歩)。しかし、それは一本二本食べた場合であって、毎日食べるとなると事情は異なる(譲歩への反論)。また、一時的にであっても涼をとれるのであればアイスは暑さ対策に有効であるという主張もあるだろう(根拠2に対する想定反論)。しかし、身体の熱をとりたいのであれば適切な水分補給や冷えたペットボトル飲料を身体に当て続けることが有効であり、アイスを選択する積極的意義はないはずだ(想定反論への反論)。したがって、アイスはあくまで嗜好品として位置付けるのが適切であり、毎日食べるべきではないのだ(主張繰り返し)。

 

というような文章があるとしよう。文章の優れているのは、一旦出力してしまえばもう一度頭の中で再現する必要なく、自分の考えと向き合うことができる点にある。ここでは最後の「あくまで嗜好品として位置付けるのが適切であり」というところに主張の甘さがある(アイスだけに)とわかる。コーヒーは嗜好品なのに毎日飲んでいるわけで、「嗜好品だから」は理由としては弱く、検討していないまま根拠として出していることに気づける。というよりも、事前に2つ並べたはずの根拠のどちらとも関係なく新たに出してきてしまっている。だとすれば最後の主張の部分では

「したがって、体を冷やすためというのはアイスを食べる口実に過ぎないのであり、食べるのであれば健康を守れる範囲で食べるべきである。以上の条件を考えると、アイスは毎日食べるべきではないのだ」

くらいにした方がよく、こうするとそれまでの文章とうまくつながる。

 

以上は他人に読ませる文章にするうえでのブラッシュアップの作業だが、それ以前にこの短い文章ではいくつもの論点を取りこぼしていることに、書きながら気づいたりしている。単純に金銭的に負担が大きくなってきてしまうという事情は加味していないし、根拠として挙げた健康への影響も具体的には何もわかっていない。だから次には金銭面での負担が実際にはどれほどのものかを検討したり、健康への影響がどれほどのものか(お酒みたいに嗜む程度ならばかえってOKというような主張はないだろうか)などと考えを進めていける。文章によって考えるというのは、次の思考のための足がかりを用意しながら登っていく感覚である。上の文章はそういう生煮えの状態、まだ固めるべきものを固めていないままの文章なので、自分の主張ではあるけれども自信をもって正しいとは思っていない状態にある。考えるための足場としての文章になる。だから読ませる用のブラッシュアップをする段階ではないのだけれど、ブラッシュアップ自体が生煮えの思考を煮詰める作業でもあったりして、一連のあれこれのことを「文章で考える」と呼んでいる。

 

で、僕はこれを脳内でできないということを常々歯がゆく思っているというのが本題になる。

セルフ添削コーナーで取り出したのは最後の主張繰り返しパートだが、これは外部に出力しておいたから見直すことができたわけで、脳内で「嗜好品だから云々」のテクストを手元に置いた状態で「いや、そこ変じゃない?」と小脇に抱えておいた根拠1と2のテクストを引っ張り出してくるような器用な真似ができない。頭の中で書いておいたちょっと前の文面を短期記憶しておくことが苦手という感じ。ともかく、一度文章のかたちで地面に置いて足場を組み立ててからあれこれ考えることに慣れたせいで、文章に書き留めておかずに空中で複雑なことを考えるのがどんどん苦手になっている。

具体的には散歩をしながらとか、メモをとらずに本を読むときとか、誰かと話しながら色々考えなければいけないときとか、日常的にはしばしばペンなしで考えなければならない場面が発生する。というかその方が多い。文章で考えた方が複雑な物事に対処できるという話に過ぎないのかもしれないけれど、文章に甘えることを覚えてしまったせいか、すべて脳内で完結しなければいけない空中戦では、文章に慣れていない他の人よりも分が悪いんじゃないかということをよく思う。

そういうわけで「空中戦じゃ分が悪い」というフレーズを非常に共感的に受け取っている、というか比喩としてとてもしっくりくるから密かに愛用している。

 

(これは完全に余談なのだが、『プレゼン・フォー・ユー』の再現記念写真で僕は冬優子の立ち位置だった。他にも辛いものを好んで食べたりとすごく遠回りに冬優子に親近感を抱いているのだが、空中戦~~も冬優子のセリフなのであまり本人に喜ばれなそうな縁を感じる)

 

 

 

と、空中戦に苦手意識の強い人間なのだけれども、よく考えれば昔は文章なんか全然書かない人間だったし、囲碁が好きで何手先を読むみたいな頭の使い方はなんなら得意だった気もする。これはどうしたもんだろうかと思うのだが、自分一人で考えるときにひたすら文章で考えるようになったのは大きいかもしれない。それから電車の中や行き帰りの徒歩で頭を使う代わりに本を読んだり音楽を聴いたりするようになったのもたぶん大きい。

結論は出ないけれども「どうしたもんかなぁ~」という気持ちは常にくすぶっており、長らく着地点を得ていない。たぶんスマホ使いまくるのをやめた方がいいんだろうとか、周辺的なことを細々と思いついてはいるけれども、もっとクリティカルな何かが足りていない。そんな予感。