迂闊な会話

SNSが普及し始めた頃につながりたい症候群というような言葉があった。それほど積極的に考えたこともないが、なんとなくわかる気もしていて、みんながみんななんとなくわかる気がするからこそ広まった用語なんだろうなとも思う。一方でそういう曖昧なものこそ突き詰めればボロが出たり、受け入れがたい独断が挟まったりするものとも思っている。だから大して突っ込んで考えなかったのかもしれない。

 

最近になってSNSによる人とのつながりを意識せざるをえなくなった。というか、ここ数年の個人的潮流のせいだ。同級生が就職していくのを横目に大学に居座り続けてきたところに授業がリモートになったことが手伝って大学での交友関係は少なくなり、ツイッターにいることが増えてきたという状況にある。ツイッター経由で知り合った人たちとけっこう突っ込んだ話をするのもあり、また自分の書いたものがそれなりに拡散される機会もあったため、自分の生活における重心はけっこうツイッターに偏っているのは正直なところだ。

 

そんななかでふと、思考が煮詰まる前のものを出す場所があんまりないなということを思った。僕の感触では、考えるという行為は論理的な道筋を経て最後に結論が出てくるのではなく、むしろ先に結論が出てきて、それはいったいどういうことなのだろうと遡ったり細分化したり修正したりするなかで完成する。だからまだ十分に考えられていない結論は、どこかで人倫に悖る独断を経由して生まれた結論である可能性が残っているため、普通は表に出さないようにしている。もちろん十分煮詰まっていなくてもツイートすることはあるのだけれど、それでも最低限の検閲はかけている。ふと思ったこと(まず初めに得られた結論)を精査せずに出すということはなるべく避けている……のだが、人との交流ってそういうものじゃないだろうと思う。

たとえば日常会話といって思いつくものはもっとテンポよく行われるはずで、喋る内容を事前に準備するものでもない。十分に用意した堅牢な言説を出すようなコミュニケーションは会話にしてはちょっとイカツすぎる。完成される前の剥き身の思考がやりとりされてもいいはずなのだが、そういうコミュニケーションから疎遠になっているのではないか、と自問している。そしてその原因の一端は普段からコミュニケーションの土台となってしまっているツイッターの特殊なスタイルにあるような気がしている。

 

ツイッターの特殊さは何よりもまずツイートが残るものだということにあるのではないか。僕のように後々に自分のツイートを参照したい人間にとっては、ある程度ちゃんとしたものであってほしいと思ってしまうのだが、問題はたぶん他人の目に触れることに関する。そもそもフォロワーに読まれることを前提として投稿しているものだし、鍵をかけていなければリツイートによって広く人の目に触れることになる。また、しばしば炎上している光景を見るように、ツイートは多くの人の審査を被りうるものという性質は否定し難く存在する。そのことを意識すればするほど、当たり障りのないことを言うか主張するまえに武装するかになってくるのではないだろうか。さらには、いいねがつくというのも事態を加速させている節はあるのかもしれない。上手いことを言えば評価されるという事情が暗に陽にツイートの傾向を変えることはままあるだろう。とはいってもこの辺はちょっと自信ない。

ちょうどいいから指摘しておけば、この「ちょっと自信ない」とエクスキュースを入れたくなるのがまさに剥き身の思考を出すことへのためらいのあらわれだ。「変なことを言っていても指摘してもらえればお詫びして訂正するのでご容赦ください。」「間違っているかもしれませんが、そもそも自分にとって絶対に正しいと思っていることを主張しているわけではありません。」そういう気持ちを小脇に抱えているのだから、成熟する前の思考を気軽に投稿などできやしない。とりわけツイッターでは拡散されてエクスキュースが届かなくなる場合もあり、また発言者の人柄や普段を考慮せずツイート内容だけで判断されることも普通にある。気軽なおしゃべりにはめっぽう向いていない。

 

とすると人間関係がわりとツイッターに侵食されている現在、迂闊な発言ができる場所がだいぶ少ない。自分自身が他人の迂闊なツイートには容赦がないのだから尚更やりづらい。だけどSNSをついつい開いてしまうときに求めている人間関係は、武装したうえでの主張の応酬というよりは、もっと気軽なものであることが多い。十分に考えてないことを未熟なままに放り投げても大丈夫なような、ディスカッションから遠く離れた会話の場の用意がたぶんあまりない。だから時々、クローズドな音声会話をしたがるのかもしれない。なんと言っても声はリツイートされる前に消えるのだ。