数になる

また久しぶりの投稿になります。あんまり日を空けて投稿すると気合の入った文章を用意しなくてはいけないような気持ちになりますが、はてなブログは十分に精査する前の生煮えの思考をダダ漏れにさせておく場所として用意していたのでした。

ということで今日は半分くらい日記のつもりで書いていきます。

 

実は昨日はちょっとお出かけをしていました。けっこう楽しく過ごしたのですが、これについては基本的に思い出として大切にしておくこととしまして、その中でちょっと考えておいてみようかなというところだけネット上に残しておこうと思い至りました。

 

交通量とかをはかるカウンターあるじゃないですか。道路の端っこに座ってカチカチやってるあれ。歩いてたら横断歩道を渡ったタイミングでカチカチってされて、「今、自分は数としてみなされたな」と、感想を抱いたんですね。

別にこんなんで不快になるわけないですし、人間を抽象的な概念として扱う暴力性的なサムシングを摘発しようとしているわけでもないんですが、まぁしかし数にされたなという感想を確かに抱いたのですね。その後に入った店で「あなたは*****人目のお客様です」と印字されたコースターが出てきまして、同伴者の方に「これも数ですね」と言われたのですが、このときは言われて初めて数であることに気づきました。

驚いたというほどではないんですが、思い返してみればあの時は「数にされた」という感じはしなかったから気付かなかったのだと思います。「数にされた」と思ったときに自分は一体何を感覚したのか、これはちょっと気になります。

 

手始めにコースターに書かれた数になぜセンサーが働かなかったのかを考えるといいかもしれません。

なるほどあの数は自分に割り振られた数ではあるんですが、この場合は先に自分が客として存在していて、そこに数字が付与されている感じがします。僕は*****人目の客として見られているというよりも、緑茶を頼んだ客として見られており、そのうえで「あなたは*****人目のお客様です」と言われている感じがします。あのコースターは半ば形式的なものでしょうし、店員さんの実際の心境は知る由もないですが、いずれにせよそんな明確に意識的に渡されているとは思えないので、まず客とみなした相手に対して数字を付与するだなんていうのは仰々しい描写です。ですが、敢えてそうして出来事を拡大表示してみると、横断歩道の場面とのちょっとした違いが取り出せそうです。

要するに、カウンターでカチカチされたとき自分は「人間としての中身を詰める前にまず数字としてみなされた」と受け取ったのではないかと考えました。計測者にとっては僕はただの歩行者に過ぎず、どういう人間かはどうでもよく、同じ電車でそこにやってきた人が僕の代わりにそこを歩いてても何も違いがないわけです。彼らにとって僕はnをn+1にするだけの存在で、初めから数字としてみなされているという。そういう他者が僕を見る仕方(他者が僕をどういう風に見ていると僕が考えているか)を感じとって漠然と言葉にしたものが「数にされたな」という感想だったのだろうと思います。

 

繰り返すように別に不快とかでは全くないのですが、そのわりに「~された」という言い回しにはやや非難がましいニュアンスを自分で感じます。非難のつもりはないんですが受動的であることには注目してもいいかもしれません。

数ではないにしても我々は「人間としての中身を詰める前」の状態で日常生活に埋没しています。群衆を構成する一部になっているとき、コンビニで買い物をするとき、その場にいる人たちに自分の名前や経歴や今の気持ちなどを共有したいとはまったく思わず、むしろただの一般人Aでいることを望んだりします。

よく行くコンビニの店長が妙に気合の入った人で、親しくなろうとするみたいなノリで話しかけてくることがあるのですが、僕としては今自分が買っているパンの種類とかを把握されないまま買い物したいときもまぁまぁあります。たとえば、(「この人お昼ご飯を全部菓子パンにしようとしてる」とか思われたくない……)というどうでもいい心配をせずに会計を済ませたかったり。そういう一般人として埋没するモードで買い物してるときに、血の通ったお客様だと思われると面食らうもので、この場合は「数にされた」のとちょうど反対に「人間にされた」という感じがします。

してみると、僕は人間になりたいときと抽象的な概念でいたいときとをどこかで使い分けているようです。他方で、人間社会に生きているのですべて自分都合でどっちになりたいかを決められるわけではありません。自分が他者からどう扱われるかは相手次第なわけで、自分がどのモードで存在しているのかを他者から規定されることもあります。それが自分の思うモードと食い違うこともあり、「数にされた」「人間にされた」ときに違和感として表面化しているのは、そういう他者とのささやかなすれ違いであったり、他者の意思であったりなのではないかと推察します。

 

自分の気持ちとしてはこの違和感は視覚や聴覚のような感性的なものに近いんですが、他者の気持ちを感覚できる(他の感覚同様に正確性は保証するものではなく)というのは、ちょっと面白い発想ではないかなと思います。

ふとした気付きを磨き上げてアイデアくらいにする頭の使い方、楽しいです。