美容院で話す

髪を切った。前回切ったのは9年ものの長髪をばっさりした時で、それ以来になる。今回は別に前髪をちょちょいと整えてもらって全体をすいてもらっておしまい。

 

美容院(行ったのは千円カットだが)にありがちなネタとして、美容師さんと話すのが嫌、みたいなやつがある。個人的には別に初対面の人ともけっこう和気藹々と話せることも多いので、そんな緊張感もない。実際、長髪を切った時にはわりかしずっと話してたのだが今回はどうにもまごついてしまった。

それであろうことか、美容院で話すの苦手だなという感想を抱いて(はて?自分は初対面相手でも話せる方だったが……?)と首を傾げたのだった。いや、切ってもらってる最中なので実際には首を動かしちゃいないのだけれども。

「美容院でのおしゃべりが苦手」みたいな市民権を得ている言い回しをむやみに使うと、自分が本当は何を思っていたのかわからなくなってしまう。なるべく言葉には責任を持っていたいから、どうしてこういうことを思ったのかはその都度立ち止まって考えてみたい。と、もっともらしいことを言っておいてだが、すでに「言語の壁」が問題だったのだろうと見当をつけている。

 

髪を切る時には先に注文を聞かれるもので、そこでのコミュニケーションに障害を覚えると、僕はおぼつかなくなるようだ。なんの仕事してるとか、そういうのは別に話せるのだが、髪型を注文するときのやりとりがとても苦手なのだ。

本音を言ってしまえば全部任せたいし、自分でもどういう見た目がいいのか全然わからない。とりあえず邪魔な前髪を切ってくれれば十分なのだが、前髪を切るだけではアンバランスが生じるらしいことは想像がつくから前髪以外にも注文を言っておいた方がよかろうとも思う。しかしどう調整すればバランスがとれるのかは、てんでわからないからプロに任せたい。が、向こうからしても初めましての相手のバランスなんて頼まれたって困ってしまうだろうとも想像がつく。だから、前髪は眉にかかるくらいだの、両サイドは残してほしいだの、この辺の毛量をちょっと減らして欲しいだのと言葉を尽くして伝えるのだが、ここでのボキャブラリーに美容師さんとのギャップを覚えることがある。

 

今日の例で言えば、「前髪は梳くのでいいですか?」「全体軽くする感じで?それとも毛先だけ?」というようなことを聞かれた。僕は「スク」とどうなるのかがよくわからない。いや、わからないことはないのだが、推測にとどまっている。たぶん長い髪の長さを短くするのではなく、何割かの髪を切ることで毛の密度を下げる操作を言うのだろう。同じ文脈で言われる「軽くする」も密度に関わるワードだから、たぶん合っている。そう理解して、おずおずと「それでお願いします」と答えることになる。

おそらく意思疎通自体はとれている。が、僕と美容師さんとのあいだで語を運用する労力にギャップがある。美容師さんとしては当たり前に使っているワードでも、僕は普段髪を切る文脈にいないものだから、流れるようには語れず、意識的に頭を働かせて語ることになる。

 

これと似たようなことは外国人との会話でも感じる。自分が喋った英語が聞き直された時、発音が悪いのか単語の意味を覚え間違えているのか、伝わらない原因の候補がいくつもあって少々パニックになる。特に強いのが後者で、自分は英語に精通していないから辞書的な意味が近くてもニュアンスが全然状況にそぐわない単語を選んでいるのかもしれない、という不安が増大する。

これに近いものを美容院(理容院?理髪店?)でも感じる。「スク」の意味はなんとなく推測できるのだが、いざ「梳いてください」と自分の言葉にするほどの自信はない。それくらい言えばいいものを……とも思わなくもないが、「自分はまだ何か決定的な思い違いをしているかもしれない」と臆病な気持ちが大なり小なりある状態で、流れるように言語を扱う人を相手にすると、目上の人間に話しかけているような恐縮した気持ちになるのは自然なことではあろう。

 

もちろん以上の文章は、美容師さんたちはもっとわかりやすく話すべしという主張ではない。美容院で会話したくない人の多くも、おそらくは知らない人と話すことへの抵抗感だと思うので、これらすべてごく個人的な内省にほかならない。僕は「自分だけが知らない」という不安が強いらしく、それが「美容院で話すの苦手だな」と迂闊にも思った心理状態の核だったのだろうというのが、長ったらしい文章の成果でもある。

 

個人的な内省を綴ったものではあるが、この不安は別に特殊なものではないとも思っている。美容院で不安を発揮するが典型的なのかは微妙だが、たとえば断定口調でものを語られると説得される(されそうになる)のは心当たりの人が多いのではなかろうかと思う。

今でこそ、ひろゆきとか中田敦彦とかを見ても過度に単純化しているなと思うし説得される気配もないが、断定口調で話されると自分を知らない側に置いて相手は精通している側とみなして萎縮してしまうのは過去を振り返って思い当たる節がある。Twitterなんかでは字数制限が裏目に出て、曖昧なことは切り捨てられながら社会を切る言説があふれている。政権批判の文脈とかで事実の提示はせずに、みなさんご存知の通りこいつは悪人で……と言わんばかりの文言を見ると、偏見が入っているのだろうなという冷静さの裏で、よく物事を知っている者だけが至れる次元で話しているような気がして、やはり自分だけが知らないのだと萎縮する気持ちがあったりもする。

人を萎縮させる錯覚を悪用して断定口調を多用している人なんかもいて、そういう連中のことは許す気になれないし、たぶん今は耐性がついているのだけれど、萎縮しやすい心持ちは変わりがないものだから、たとえば美容院での会話のような悪意のない場面で、うっかりオロオロしてしまう。