髪への追悼

九年半伸ばしていた髪を切りました。

アイデンティティーを文字通りに喪失したわりにあっさり短髪に順応してしまい、この年月とは一体何だったのかという大掛かりな迷走が始まりそうな始まらなそうな、そんな予感とともに新しい日々を過ごしております。

違和感が漂う移行期間が早くも終わりそうな気配もしており、記憶のあるうちに備忘録がてら長髪への追悼文を綴ろうと思います。

 

切った前後はこんな感じです。

切る前

切った後



伸ばし始めたのは9年くらい前のことで、そこから前髪は整えていましたが、基本的には伸ばすに任せていました。一度後ろをちょっとだけ切って長さを整えたのと、両サイドだけばっさりいったことはありましたが、最長部分は限界までいったと思われます。

ここ一年くらいは一番長いところの位置が変わっている感じがせず、伸びる速度と抜ける頻度とが拮抗したのかなと思います。男女で長さの上限が違うという話を聞いたことがありますが、とりあえず僕の場合はこの辺まででした。

最初は髪を伸ばすのに理由が必要で「どこまで伸ばすの?」と聞かれることが多かったのも、腰に届きそうなくらいになってくると切るのに理由が必要になってきて先延ばしにしているうちタイミングを逸し続けました。長髪あるあるなのかわからないですが「ヘアドネーションできそうだよね」とめちゃめちゃ言われます。体感、珍しい苗字の人が「珍しい苗字ですね」と言われるのと同じくらいの頻度です。苗字珍しくないので偏見ですが、実際かなり言われます。ちなみにヘアドネーションはやってきました。

一応、ヘアドネーションに対しては「女にもハゲる権利はある」というかたちで批判があるのも知っていて、つまりカツラを作ることに協力してはいるけれども、髪がないことが劣っているかのような価値観を助長している側面がなくはないというのは自覚しておきたいところです。というのを踏まえつつ、一般的に性別ごとに普通とされる髪型に反してきたのが自分なわけで、好きな髪型をしたい人がそうできるような方向への助力はやっておいても悪くないのではないかなというのも考えてました。という理屈も用意しつつ、本音を言えば九年半も伸ばしてきた髪を切ることには相当な覚悟が必要で、嘘でも本当でもせっかく切った髪に価値があると思えないと踏ん切りがつかなかったため、ヘアドネーションで動機付けをしていたところがあります。最終的にはさながら臓器提供の気概でした。

それでも切ることにした理由としては単に転職活動を始めるからなのですが、長髪でも働ける職場を探す努力については早々に諦めてしまいました。髪型くらいで人柄を判断するような未熟な社会に対しては反発してやりたい気持ちもありましたが、そこで闘う気力はありませんでした。こういうタイミングでもないと本当に切るタイミングを失ってしまうので良い機会であったのも事実で、ていのいい言い訳としました。

覚悟の決まらなさと言えば相当なもので、髪を切ろうと決めてからも長らく美容院の予約をとれず、うじうじしていました。そのくせ長髪のうちにできることが思いつくわけでもなく、髪を梳きながら名残惜しさに浸るばかりでした。漫画とかで毒が回る前に刺された腕を切り落とす豪傑の覚悟が沁み入ります。

 

そんなこんなでためらいながらもヘアドネーション希望の旨を伝えて美容院の予約を取り、当日になりました。

ドネーションをする団体にもよるのですが、長さが31cm以上必要でこれは折り返して15cmずつの長さにして縫い付けるのりしろ(?)部分のために1cmくらいの余分を設けているとかなんとか理由があるようです。僕の場合は切った部分だけで60cmに届く勢いでした。今回お願いする団体がたしか31〜35cmで、つまり上限を設定しているところだったので、むしろ余分の長さを切り落とす必要すらある長さとのことでした。ちょっともったいないような気もしますが、毛先は分裂してたりしてるせいで質が劣るため、根元寄りのところの方が好ましいというお話でしたので、マグロで言うところの大トロを差し出すようなものだと理解しました。

あとは美容師さんと相談しながらちょっとずつ切っては整えていきました。そういえば美容師さんから聞いて興味深かったことなのですが、ずっと結んでた人は結んでた方に髪に癖がついてて中途半端な長さにすると毛先が巻いてしまいやすいようです。そういう事情もあって後ろはけっこう際まで短くしてしまいました。

 

ここからは髪が短くなってから違和感を覚えたシーンを列挙していくことにします。

・手櫛をしたときに梳き始める前に終わる

・公衆トイレに行って性別を間違われる可能性を考慮しというた方がよかったのが、今度は考慮してる方がおかしいことになってて困惑する

・髪洗うか〜って思った瞬間に洗い終わる。体感0秒

・数年ぶりに寝癖ができるようになった(結んで誤魔化せないし長すぎるとそもそも寝癖などできなかった)

・長い髪が自室に落ちてると故人を偲ぶような気持ちになる

・服を着るときや脱ぐときに顔面に張り付かないように髪をどける仕草が空ぶる

・毛先であった付近に当時髪を末端部分で引っ張ってた動作のような仕草をすると頭皮がちょっとくすぐったい(髪版のファントムペイン

・電車のドア横のスペースに立つとき、座席に座ってる人に髪の毛がかかる心配が無用になった

 

 

切ったの自体はもう二週間くらい前になりまして、この前は切ってから初めて会った人に驚かれて、驚かれることに驚いてしまって、自分はもうこんなにも順応してしまったのかと少々寂しい気持ちでした。長らく好んで伸ばしていた髪を失った影響がこんなにもあっさり引いてしまうと、アイデンティティだったはずのものの存在感が自分にとってさして重要でもなかったかのようで、この9年半とは……と物悲しい気持ちです。

早々に喪が明けてしまわないうちに、ささやかながら追悼を捧げてみたりしてこまします。なむなむ。