北陸旅行2日目 雨晴海岸

朝、荷造りやら片付けやらをして朝食。今日も美味しい。ナイス。

今日の予定は「べるもんた」に乗って氷見へ向かい、海鮮丼を食べたら雨晴海岸へ行って飛騨高山を眺めるというもの。その後、僕は金沢へ移動、同伴者は翌日仕事なので高岡で解散する流れだ。

 

お世話になった宿を出てこの日は快晴。前日はボテボテ雪が降ってきて風もすごくて身体的にハードだったが、一転してとても澄んだ青空だった。前日の靴浸水があったため防水性に優れた靴を入手できたらいいなと思っていたのだが、同伴者がホームセンターを駅横に見つけてくれたため朝一番に立ち寄った。都合のいいことにお手軽価格で上々なものが買えて、早速履き替えて新たな相棒とした。高岡駅に戻ってくる予定なのでスーツケースは駅のコインロッカーに預けた。

 

 

べるもんた

事前予約が必要な列車「べるもんた」に乗る。正式名称はbelle montagne et mer(ベル・モンターニュ・エ・メール)で美しい山と海といった意味になる。指定席券が必要ではあるが、特急というよりも観光列車と言うべきもので、電車好きには人気が高いらしい。大学の後輩にも石川に行くならべるもんたに乗ることをおすすめしますと言われていた。彼曰く車窓からの景色は日本でもっとも綺麗だそうだ。

高岡駅にべるもんたが到着すると、なるほど乗客たちが一斉に撮り始め、僕らも例に漏れず撮影をした。熟年夫婦的な雰囲気のお二人のカメラマンを頼まれて、代わりに僕らの写真も撮ってもらったりした。こういう一期一会的な交流は結構好きだ。

僕らの席は窓に向いたカウンター席で、他にテーブル席もあった。事前に頼んでおけば電車内に職人が駐在しているため寿司を食べれたりもするので、さっそく始めている乗客もいた。今日は見事なまでの快晴なので遠景に立山連峰がはっきり見える。手前の住宅街なり学校なりの奥に見えているだけでもテンションが上がったが、この段階では景色というよりも電車内の優雅な時間を楽しむのが慣れた人間の仕草なのだろう。見どころはこの後に待っていた。

雨晴海岸のあたりまで行くと海沿いキワキワを電車が通ることになる。なるほど絶景と言うべき見事な風景で、海の向こう側に山脈が浮いているようにそびえ立っている。写真にするとどうしても小さく見えてしまうのが残念だが、むしろ山脈の荘厳さは実物の力と言うべきかもしれない。

カントが『判断力批判』で自然景物に感じる美を人間の感性のうちで捉えるとき、荘厳なものとして感じられるというようなことを述べていた。たしか。まともに読んでいないから真に受けないでもらいたいのだが、自然への畏怖を荘厳として読み解こうというカントに納得させられたもので、優れた景観に圧倒されるたび荘厳だなぁと感じるようになった。雨晴海岸もまったくもって素晴らしい。

前景には海上に突き出た大きな岩から松が生えていたりして、ちょっと出来すぎている。義経が奥州へ逃げるときにここで雨が晴れるのを待ったのがその名の由来だと言うが、こんないいところで待ってたなんていうのも出来すぎていると思う。場所がかっこよすぎるから後付けでちょうどいいエピソードと合体させたんじゃないか。

 

 

氷見市場食堂

頭おかしいくらい量が出てくると聞き及んでいた漁港の食堂。普段は平気で3時間待ちするとかしないとか。さすがに年明けすぐはガラガラだったと言うが、僕らが行ったときは、あんまり覚えていないが20分くらいで入れるくらいの混雑ではあった。まったく全盛期には戻っていないとは思うが、ある程度は集まっているようで良かった。混んでいて喜ぶのは滅多にないこと。

ただ、やはり氷見市高岡市内より被害が大きく、市場の少し先では断水なども続いているという話だった。市場への途中でも地盤が割れているところが度々目についた。地面が断裂していて地面を覆っているコンクリートの厚み以上に縦方向にずれて土が見えているところ、道路の真ん中で数十センチ陥没していてカラーコーンを立てて目立たせているところ、崩れた灯篭の残骸が歩道に残されている様子などもあった。もっと先にあるひみ番屋街では干物などを売っている店が開いているのみだそうで、トイレも使えないところが多いらしい。自分たちは結局行かなかったが、行ったほうがいい理由と行かないほうがいい理由とがあって正解がない。

そういうわけでまだまだ渦中であるのだが、氷見漁港はどういうわけか通常運転でセリなんかもかなり早い段階から再開していたようだ。不思議といえば不思議。海鮮丼は噂に聞いていたとおり価格のわりにやたら量が多く気前が良すぎる。我々はそれぞれ海鮮丼一つたのんだうえで寒ブリ刺身の単品を頼んで贅を尽くしたのだが、サービスであら汁みたいな汁物が付いてくるものだから、度を越してしまった感がある。最終的に食べ残しなくやや安心したが、日本酒は最少量頼んだのに余ってしまった。いかなまたとない機会であったとしても中庸が大事であることを強く思い知らされた。

とはいえ美味いものは美味い。超良かった。寒ブリひとつとってもマグロの大トロと赤身みたいに部位ごとにもはや別物で、「寒ブリの刺身」と言いつつ実質4種類の刺身が楽しめたようなもの。大トロにあたるものは舌ですぐ溶けた。海鮮丼の刺身も量だけでなく一枚一枚が分厚いものだから刺身を食べてる感じがしないくらいよく咀嚼した。言われてみれば魚も肉なのだ。

そういえば食堂に入るまでの待ち時間は港を散歩して過ごしたのだが、魚を積み上げるエリアには海鳥が闊歩していた。鷺みたいな鳥が細長い足で器用に歩いていた姿は本屋で目ぼしい本を物色しているときの自分みたいでちょっと面白かった。

 

 

雨晴海岸

予定ではこれから電車で二駅移動して雨晴海岸に降り立つつもりだったのだが、1時間以上待たねばならないらしい。次の駅まで1時間くらいという話なので海岸沿いを歩いて立山連峰を堪能しようということになった。次の駅に着いたはいいが、雨晴で降りたらもう一時間待つことになる。それはあんまりかな~という話になり高岡に直行したので、厳密には雨晴海岸に降りてはいないことになる。降りたとてそれほどやることも見えるものも変わらなかったかなとも思う。なにせ海岸沿いを1時間たっぷり歩いたのだ。

先に感想を漏らしておいたとおり、畏怖を覚えるタイプの自然景観だった。それに付け加えるなら、全然理解できなくて終始「嘘じゃん」と思っていた。海の向こう側なのに今立っているところと地続きの陸地にそびえ立つ山脈があるのが謎すぎる。地図でみても雨晴から海岸方面を見ると日本海しかなさそうなもので、なんとか東南東方面に海かつ山脈があることも納得できなくもないが、最後まで腑には落ちなかった。

向こう岸の陸地が見えないのに山だけが見えて、もはや山脈が浮いているようにも思われるのが威容であったりもするのだが、陸地部分が見えない分には想像がつく。以前聞いたところだと、水平線は5km未満の位置が見えているのだそうで、富山湾の広さはそれよりはるかに広い。対岸の地表付近は地球の球面の死角になって見えなくなっているということは想像に難くない。が、そうなってくると今度は、もっと遠いところにある山脈が球面からもはみ出て見えるのが意味わからない。いや、わかるが、デカすぎだろう。対岸の方の理屈がわかると、山脈の方の理不尽さが増す。

そういえば眺めながら気づいたことなのだが、僕は自然景観の凄さに圧倒されているあいだ、景色から人間を排除している。理不尽なほど大きい領域を目の当たりにしているのだから、目に見えている風景の中には(そのほとんどが高山領域であるとしても)少なからぬ人間がいるに違いない。が、その景色から当然のように人間の存在を除外して感動していて、荘厳の名のもとで美を受け取る感性フィルターは人間に対して働く感性とは別の機構であるのかもしれない、などと似非カント思想で戯れる。これも旅情か?

 

 

瑞龍寺

雨晴海岸の滞在の代わりに得たのは高岡観光の時間で、駅からほど近くに瑞龍寺というお寺があったので参拝した。気のよさそうなガイドのおじちゃんが声をかけてくれた。無料ということもありガイドを頼むことにした。結論から言えばかなり良い解説だった。

教えてもらったことはどれも自力なら気づけなかったことで、ポケーっと見て「うまく言えないけどなんかすごい良かった!」と言うのと、具体的にどこが面白かったとか良いと感じたとか細かく言うのとでは、圧倒的に後者の方が充実していると思う。言葉にしてしまうと消えてしまう感動があると言う人がたまにいるが普通に言語化能力の低さを正当化しているように見える。言葉にできないものの価値を語るにはまず、言葉にできるものを増やすべきではなかろうか。ということで、具体的なおもしろポイントをば少し。

一番目立ったのは建築としての魅力だ。組み木というのだろうか、昔の宮大工仕事では釘やネジを一切使わず、工夫された形を正確な作業工程を経て作ることで部品同士を噛み合わせながら強度のある接合を実現する。瑞龍寺の木はどれも釘などを使わず全部組んであるそうで、この機能美が見た目にも美しい。隙間なくはまっているのもさることながら、装飾的な意味合いも兼ねて組んでいるところがあるようで、建物を構成する無数のパーツが必要以上に飛び出ながら支えあっていて、機能以上の主張がある。

ガイドさんの話で面白かったのは、瑞龍寺では天井張りをしていないため内側からも組み木が見られるというところだ。屋根を支え壁を構成するパーツが内外両方に突き出るかたちで仕上げられているため、天井が解放されていればこそ室内からもその意匠が楽しめるのだ。天井がないのは、解放的な空間にする効果があったり、縦に長い上等な建材を十分に余裕をもって収めるためであったりと他の理由もあるようで、種々の理由が組み合わさってあの場が出来上がっている。

正面仏壇の後ろの板は美しい木目をしており、それを雲海に見立てているという話で、随所に思惑が仕込まれている妙がある。本殿の他にもそれを取り囲むようにして建物があり、その中に禅室や厨などがある。禅宗の設計思想らしいのだが、建物を身体に見立てて左右対称に配置し手足や頭の位置にそれぞれ意味を持たせている。その点とても思想先行の作りなのだが、上で述べたように審美的な趣もある。禅宗といえば禅の実践を重視する仏教思想だから、手放そうとしている思考に囚われているのでは?と思わなくもないが、思惑を感じさせる設計ではあっても、思索的というより空気感や美しさなど心身への効果として思想が反映されていると考えると腑に落ちる。

この日は一日中晴天で、雨晴海岸から眺めた立山連峰が寺の窓からも見えていた。仏教って意外と芸術にこだわったりして、解脱を目指してるわりにめっちゃ俗世に縛られてるよなぁと常々思っているのだが、遠景の山々を見ていると心を鎮める美しさというものがあることを思い出す。

 

 

金沢へ

同伴者にとっては普通の土日だったので翌日仕事に備えて帰宅。高岡で解散して僕は金沢へ。電車を見送った後、30分くらいの待ち時間を過ごした。知らない土地で急に一人になるというのは孤独感を強める。翌日以降も旅行するのだから落ち込む資格などないのだが、人間とはかくも非合理なもので楽しみな気持ちと寂しさは共存する。

高岡から金沢は在来線でも40分程度で着く。到着後はスーツケースを転がしながら初めて見る鼓門を興奮気味に見上げて宿へ向かった。そういえば手取フィッシュランドでのアイマスコラボの関係でフォロワーが近辺に来ていて、ある人が高岡でも数百メートル圏内にいた形跡があったのだが、今度は別の人が金沢にいた。どちらにも会わず仕舞いだったが、ちょっとだけ惜しいことをした気分だ。

北陸では魚介パーリィの予定だったのだが、氷見であれだけ食べて満腹なため、街中を散策して見つけたおでんの店で済ませた。金沢おでんという名前で知られているらしく、実際とても美味しい。特徴的な具材がある以外、他のおでんとどう違うのかあまりわかってないのだが、美味いものは美味い。

宿は超格安のカプセルホテルで、貴重品用の小さめな鍵付き保管スペースはあったが、部屋自体はシャッターを下ろすだけの簡易な区切りで、カプセルホテル初体験の身としてはけっこう新鮮だった。独り言しゃべりながらスーツケースを広げることは叶わず、初めのうちは窮屈かつ不安ではあったがじきに慣れた。

北陸旅行1日目 いざ高岡

退職を機にゆっくりできる時間が生まれるため、余暇を存分に過ごすべく富山→石川→福井 の順にまわっていく旅程を前々から組んでいた。その1日目のレポ。

被災地付近へと旅行することへの葛藤は少なからずあったが、その辺は総集編として最後に書くことを予定している。旅先で執筆のためにまとまった時間をとりにくい状況ではちょっと書きにくかった。

 

(執筆現在、金沢へ移動した三日目の朝。コインランドリーが終わるのを待つ時間で近所のドトールにいる。被災地の近くまでやってきてモーニングをしていることに残酷さを感じないこともなく、「旅行で応援」というのが決して100%正しくはないだろうなと思う。なるべくお金は落としていくが、そのことを美談にはしたくないなという所存、ということだけ。ひとまず)

 

 

富山駅

富山駅構内(改札出たとこも構内って言うのだろうか)にある「とやマルシェ」という店の集まっているエリアの「とやま方舟」というお店で、氷見うどんと白えび天丼を食べた。同伴者と新幹線で相談したので半ば行き当たりばったりではあったが、氷見うどんも白えびも食べたいと思っていたらどちらも出してくれるお店を見つけ、即断だった。以下、ちょっとだけ食レポ

 

氷見うどん:異様にトゥルットゥルしている。すすったらそのままちゅるんとノドまで入っていきそうなほどの摩擦の無さなのだが、そのくせ一度の咀嚼では噛み切れないくらいのしっかりしたコシがある。あまりにも無抵抗に滑り込んできたうどんを噛むことにためらいを覚えるが、噛んだら噛んだでしっかりした食事になる。美味いが、それ以上に新鮮な体験という感じ。

 

白えび天丼:天丼でエビ天しかのっていないのは初めてのような気がする。エビ天と言っても棒状のデカいあれではない。ちりめんに入っている小さき生き物よりは数倍大きいくらいのサイズ感で、文字通りに白いのが外見的な特徴になる。唐揚げにしてるから白いのかな。調べると生体ではもう少し赤みがある。深海の生き物らしい。食感としてはエビらしいプリッとした感じと、歯で簡単に崩れるくらいの硬く脆い甲殻の食感とがある。両方ともがしっかり特徴としてあるような印象で、こういうエビは食べたことがあるようで意外とない。なるほど丼の上をソロで張れるくらいの美味さ。

 

ゲンゲ:見かけたので注文した。深海魚らしい。棒状の魚で、これも唐揚げでいただいた。同伴者がししゃもっぽいと言うのを聞きながら食べたためか、たしかにししゃもっぽい気がする。ただし、ししゃもは可食部の多くが内臓や骨格系なのに対し、ゲンゲは肉が多い。深海魚と言うとゲテモノ感をどこかで覚悟していたが美味いから食文化として残っているのだ。調べると身がふわふわしているという評価があり、その場のノリで頼んだから記憶は定かでないが、たしかにそうだった気がする。無知は感性を鈍らせることもある。

 

 

高岡なべ祭り

高岡駅へ移動した。ちょうどこの土日で高岡なべ祭りが開催されていた。500円で一人前の鍋が食べられ、種類がめちゃめちゃある。駅前で開かれていたが開催地は街中に点在していて、歩いた先でも何箇所か見かけた。

自分が食べたのは「かぶす汁」というもので、「かぶす」とはこの辺の漁師たちのあいだで分け前を意味する言葉らしい。その日によって違う魚が素材となっていて、あら汁みたいな雰囲気の味だった。そういうものだと割り切っていたから不満とかでは決してないのだが、魚の骨があまりにも多くて容赦なさにちょっとうけた。魚の風味が出ている汁がとても好きな人間なので、大満足。これでワンコインとは破格だ。

 

高岡散策

外は豪雪(関東比)で、この日は東京でも雪が降ったそうだが、僕の初雪は富山となった。降ってくる雪のひとかたまりがえらく大きく、それでいて軽やかに落下するものだから、降るというよりは降りてくるとでも言いたくなる降雪だった。

金屋町という古い景観を散策しに行ったのだが、如何せん雪がすごい。最初、地震があったから観光客がいないのかと思ったが、そもそも出歩くような天候ではなかった。金屋町もほとんど店が開いてなかったので歩いただけになった。しかしそれもまた一興である。駅方面に戻りながら途中で山町茶屋というところに入り、暖をとらせてもらった。暖かいの大事。古民家をそのまま使っているような店構えで趣があり、コーヒーも美味しかった。店主さんも親しみやすく注文のたびに話しかけてくださった。

 

 

高岡大仏

この辺の有名な大仏。奈良とかのイメージしかないので小さく感じるが、威厳はある。なにせ雪が積もっていても坐禅を組んでいるので。

この大仏さんはイケメン大仏として有名らしく、たしかに端正なお顔立ちをしておられる。桜蔭高校出身の知り合いが、修学旅行前に大仏についてやたらめったら調べる課題が出されたと話していたのを思い出した。当然のようにほとんどみんな興味はないのでいやいや調べていくのだが(それでも調べるのはさすが桜蔭だ)、その過程で不思議と大仏がかわいく見えてくるのだという。あの大仏が好きとか、こっちのがいいとかの話題になるそうで、その思い出トークを側から聞いててもちょっと楽しそうだった。

高岡大仏もイケメンと聞いていたからか親しみを込めて参拝できた。知識は感性を育むこともある。

 

 

旅館

あとは旅館に到着したら暖房の前に居座って気持ちと体を落ち着ける。夕食は地元のものや海の幸を堪能できてとてもよいでございました。これもまた木造の古い建物で、しんしんと冷えるけれどもストーブの暖かさがありがたい宿だった。雪で浸水した靴も、許可を得てストーブの前で乾燥させてもらえた。すぐさま乾いて翌日への心配も減って、大変ありがたい。

食事の時間もあって夕方くらいに着いたため、時間にはゆとりがあり、ゆっくりと冷えと疲れから回復するにはおあつらえ向きな雰囲気の宿でとても良好であった。

美容院で話す

髪を切った。前回切ったのは9年ものの長髪をばっさりした時で、それ以来になる。今回は別に前髪をちょちょいと整えてもらって全体をすいてもらっておしまい。

 

美容院(行ったのは千円カットだが)にありがちなネタとして、美容師さんと話すのが嫌、みたいなやつがある。個人的には別に初対面の人ともけっこう和気藹々と話せることも多いので、そんな緊張感もない。実際、長髪を切った時にはわりかしずっと話してたのだが今回はどうにもまごついてしまった。

それであろうことか、美容院で話すの苦手だなという感想を抱いて(はて?自分は初対面相手でも話せる方だったが……?)と首を傾げたのだった。いや、切ってもらってる最中なので実際には首を動かしちゃいないのだけれども。

「美容院でのおしゃべりが苦手」みたいな市民権を得ている言い回しをむやみに使うと、自分が本当は何を思っていたのかわからなくなってしまう。なるべく言葉には責任を持っていたいから、どうしてこういうことを思ったのかはその都度立ち止まって考えてみたい。と、もっともらしいことを言っておいてだが、すでに「言語の壁」が問題だったのだろうと見当をつけている。

 

髪を切る時には先に注文を聞かれるもので、そこでのコミュニケーションに障害を覚えると、僕はおぼつかなくなるようだ。なんの仕事してるとか、そういうのは別に話せるのだが、髪型を注文するときのやりとりがとても苦手なのだ。

本音を言ってしまえば全部任せたいし、自分でもどういう見た目がいいのか全然わからない。とりあえず邪魔な前髪を切ってくれれば十分なのだが、前髪を切るだけではアンバランスが生じるらしいことは想像がつくから前髪以外にも注文を言っておいた方がよかろうとも思う。しかしどう調整すればバランスがとれるのかは、てんでわからないからプロに任せたい。が、向こうからしても初めましての相手のバランスなんて頼まれたって困ってしまうだろうとも想像がつく。だから、前髪は眉にかかるくらいだの、両サイドは残してほしいだの、この辺の毛量をちょっと減らして欲しいだのと言葉を尽くして伝えるのだが、ここでのボキャブラリーに美容師さんとのギャップを覚えることがある。

 

今日の例で言えば、「前髪は梳くのでいいですか?」「全体軽くする感じで?それとも毛先だけ?」というようなことを聞かれた。僕は「スク」とどうなるのかがよくわからない。いや、わからないことはないのだが、推測にとどまっている。たぶん長い髪の長さを短くするのではなく、何割かの髪を切ることで毛の密度を下げる操作を言うのだろう。同じ文脈で言われる「軽くする」も密度に関わるワードだから、たぶん合っている。そう理解して、おずおずと「それでお願いします」と答えることになる。

おそらく意思疎通自体はとれている。が、僕と美容師さんとのあいだで語を運用する労力にギャップがある。美容師さんとしては当たり前に使っているワードでも、僕は普段髪を切る文脈にいないものだから、流れるようには語れず、意識的に頭を働かせて語ることになる。

 

これと似たようなことは外国人との会話でも感じる。自分が喋った英語が聞き直された時、発音が悪いのか単語の意味を覚え間違えているのか、伝わらない原因の候補がいくつもあって少々パニックになる。特に強いのが後者で、自分は英語に精通していないから辞書的な意味が近くてもニュアンスが全然状況にそぐわない単語を選んでいるのかもしれない、という不安が増大する。

これに近いものを美容院(理容院?理髪店?)でも感じる。「スク」の意味はなんとなく推測できるのだが、いざ「梳いてください」と自分の言葉にするほどの自信はない。それくらい言えばいいものを……とも思わなくもないが、「自分はまだ何か決定的な思い違いをしているかもしれない」と臆病な気持ちが大なり小なりある状態で、流れるように言語を扱う人を相手にすると、目上の人間に話しかけているような恐縮した気持ちになるのは自然なことではあろう。

 

もちろん以上の文章は、美容師さんたちはもっとわかりやすく話すべしという主張ではない。美容院で会話したくない人の多くも、おそらくは知らない人と話すことへの抵抗感だと思うので、これらすべてごく個人的な内省にほかならない。僕は「自分だけが知らない」という不安が強いらしく、それが「美容院で話すの苦手だな」と迂闊にも思った心理状態の核だったのだろうというのが、長ったらしい文章の成果でもある。

 

個人的な内省を綴ったものではあるが、この不安は別に特殊なものではないとも思っている。美容院で不安を発揮するが典型的なのかは微妙だが、たとえば断定口調でものを語られると説得される(されそうになる)のは心当たりの人が多いのではなかろうかと思う。

今でこそ、ひろゆきとか中田敦彦とかを見ても過度に単純化しているなと思うし説得される気配もないが、断定口調で話されると自分を知らない側に置いて相手は精通している側とみなして萎縮してしまうのは過去を振り返って思い当たる節がある。Twitterなんかでは字数制限が裏目に出て、曖昧なことは切り捨てられながら社会を切る言説があふれている。政権批判の文脈とかで事実の提示はせずに、みなさんご存知の通りこいつは悪人で……と言わんばかりの文言を見ると、偏見が入っているのだろうなという冷静さの裏で、よく物事を知っている者だけが至れる次元で話しているような気がして、やはり自分だけが知らないのだと萎縮する気持ちがあったりもする。

人を萎縮させる錯覚を悪用して断定口調を多用している人なんかもいて、そういう連中のことは許す気になれないし、たぶん今は耐性がついているのだけれど、萎縮しやすい心持ちは変わりがないものだから、たとえば美容院での会話のような悪意のない場面で、うっかりオロオロしてしまう。

あけおめ、ことよーろっぱ 豊富な抱負

あけましておめでとうございます。

毎度毎度ひさしぶりの投稿になっています。期間があいたとて固定読者がいるわけでもないブログですから「おまたせしました」と言うのもおこがましく、また、ちぃとも罪悪感はないのですが、自分自身の問題としてあんまり文章を書いて考えるということをしていなかったなという反省が後ろめたさを育んでいます。改善したいなと、もどかしい思いです。

 

文章に限らず、あまり頭を使えていなかったなと最近を振り返って思います。こうなっている心当たりにspotify使い過ぎとyoutube見過ぎというのがあります。それぞれのプラットフォームが悪いわけではなく、時間や脳の容量を不本意に割いている自分に原因があるという話です。

youtubeは単純に時間がもってかれます。見てる動画を言うほど見たいかというとそんなでもないんですが、何もしたくないな〜って時につい開いて時間が過ぎ去るに任せることがたびたびあり、どうしてこうも不毛なことをしているのか疑問に思いながら、すっかり習慣化してしまいました。これはなんとかしたいところです。

単純に疲れてて他に何もできないという側面はあると思うんですが、だったら何もせずに寝たらいいじゃないとも思います。しかし、ただじゃ寝れないという抵抗があったりして、どうにもうまくいきません。何かに満足しきらなくて寝るのには惜しいという心理状態のような気がするのですが、思うに、実りある1日を過ごせていないという気持ちが核心です。ここにきてちゃんと頭を使えていない(=文章を通して考えることができていない)ことが改善ポイントとなります。

要するに、youtubeばっか見てて頭使って考える時間がなくなっているのだが、ついyoutubeを見てしまうのは十分に頭を使えていない不完全燃焼が原因でもあって、負のスパイラルがあるという見立てです。そこで思うのは、日中にもっと頭使ったらええやんけということなのですが、そこにspotifyの壁があります。

spotify自体はかなりよくて、観に行った映画の楽曲をすぐ聞けたり、知らない良曲に出会えたりと素晴らしいのですが、ずっと聴き続けてしまうことが多々あります。駅までイヤホン片耳つけて歩きながら聴いて、電車待ちで本を開くのは寒いから聴き続け、電車入った時には区切りが悪いからイヤホンとらず、すぐに次の好きな曲が始まって……と、電車移動という読書のためのゴールデンタイムが侵食される日々が続いています。

さらに、曲を聴きまくるとイヤホンを外した直後にも脳内で歌詞が流れて思考を阻害してきまして、これに大変難儀しています。

以前、脳内独り言などを空中戦に見立てて「空中戦では分が悪い」という冬優子のセリフにシンパシーを抱いているという記事を書きました。頭の中で文章を組み立てて考えるのが少々苦手なのですが、spotifyでさっき聴いたばかりの曲が脳内BGMになって流れ始めると空中戦はもはや絶望的です。文章を組み立てるのもそうですが、本を読むときにも本に対するリアクション(批判なり賛同なり疑問なり)をとるのも空中戦の一種なので、そこで邪魔が入ると読書もおぼつかなくなってしまいます。

これで満足に頭を使えなくなって、夜には消化不良でyoutubeでお茶を濁し、寝るのも遅くなり、というのが最近しばしば発生する残念な1日の典型です。

 

新年ということもあり、ここらでいっちょ対策を練ってみるのもいいだろうということで、このようにして文章を書きながら考えてみます。

で、一番の問題児はyoutubeなので、これをspotifyの時間にスライドさせるのはいかがでしょうか。見たい動画も中にはありますし、全部禁止するのは一度禁を解いた瞬間に志が瓦解するので厳格な禁止はよすとして、基本的についうっかりyoutubeを開いてしまう時間をspotifyにあてること、そしてその代わりにspotifyを開いていた時間は「何もしない」にあてて、脳内独り言という名の思考が勝手に始まれば御の字という方針はいかがでしょうか。

「でしょうか」もなにも自分にプレゼンしてるのだから、明日から実践してみるだけなのですが、これは今のところいい感じに動きそうな気がします。ちょっと頑張ります。

もともと話したい内容を寝る前に考えて翌日以降に持ち越すことなどがたまにできていた人間なので、阻害するものがなければいけそうな気がします。空中戦と呼んでいるこれ、暗算みたいだなとも思っていて、暗算よろしく疲れるけど得意になりたい技能であったりします。

 

 

 

ことのついでに今年の抱負的なものをいくつかあげてみます。

唐突といえば唐突ですが、今の「空中戦に強くなる」が抱負の一つなので。

関連するところで言えば、「ながら」をなるべく控えようというのがあります。spotifyで音楽を流し「ながら」ではなく、音楽を楽しむために聴くときは聴くに専念するのがよかろうということです。一つ一つの対象に丁寧に向き合える方が人間としてできている感じがします。

 

他に念頭にあるのは「180度開脚できるようにする」です。まじか。頑張ります。どう考えても『ポールプリンセス!!』の影響ですが、股関節の可動域が広がるとかなり体の扱える幅が広がって絶対楽しいよな〜という思いがあります。

 

それから、本を読むようにするということです。

もちろん以前から読んではいるのですが、なんだかんだ読む量は少なくなってしまっています。誰かの書いたものに刺激を受けて物事を考えられるようになることが多々あるため、読む機会が減ってしまうと脳みそが停滞しがちです。特に、自分の文章を足がかりにして思考を組み上げられる執筆と違って、空中戦では最近読んだものなどがないと考えるきっかけも難しかったりします。空中戦の戦闘力をあげるためにも読書量は増やしたいところです。

 

で、今思いつく限りでの最後の目標(抱負か?)は生物分類技能検定2級のリトライです。

去年受験したときは49点だかで合格ライン(70点)には遠く及ばず、手応えとしても厳しいものでした。もう一年あれば合格いけるんじゃないかなーと受験時には思ったのですが、うっかりするとすぐ受験時期になってしまうので、気を抜かず頑張っていきたいと思います。勉強自体は楽しかったのですが、こういうのは勉強し始めるまでが一番腰が重いので、抱負として掲げておくのがよかろうと思いました。

 

 

御社以上、弊社未満。

このたび転職が決まりました。

 

入社日は2月で、現職は1月初旬で退職となります。

今年の4月に正社員として入社してから9ヶ月で辞めるかたちにはなりますが、一応、それまでも学生のかたわら細々とパートとして勤務していたところでしたので、3年半勤めたという見方もできます。が、いずれにせよスピード退社となるのでしょうか。

元々、修士論文を書きながら就活をするのが面倒くさかったから、そのまま正社員化の話をつけただけで、一年で辞める旨を伝えたうえでの入社というルーズな雇用契約をしていました。面倒がっていただけではありましたが、自分のやりたい方面について腰を据えて考える余裕が生まれたり、入社前にTOEICの勉強時間を確保して高得点を取っておけたりと、結果オーライではあったと思います。

 

次の勤め先は業界のある部門においてトップシェアといった企業で、オフィスもなんだか凄いところにあります。

それだけの企業にもかかわらず採用に関して信じがたいスピード感で、履歴書を出してから面接をして採用通知が来るまで10日かそこらでした。おかげでさしたる心労もなく一社目の第一志望に一発合格と相成りました。

業務の忙しさや難しさは現職よりかなり上がってくるはずで、また現職とは全く関係のない分野ですので、さっそく少々ビビっておりますが、今はまだ先のことに怯えるよりもスムーズに決まった現在の喜びと未来への希望に浸っていたいと思います。

 

ざっくり言えば環境問題に携わります。環境問題と言えば昨今はどうにも過激な方々が目立ってしまい、なぜか環境問題に関心のない方々からの風当たりも強かったりする領域ではありますが、問題自体は早急にどうにかしなくてはならないのは違いなく、個人的にも幼少期から強い危機意識を抱いておりました。自分がせっかく大半の時間を仕事に捧げるというのに自身にとって重要な関心事を他人まかせにしておくことへのもどかしいさを現職では感じ、こちらの方面に進むことを決意しました。

余談ですが、かように志望動機がクソ真面目なので、面接では取り繕う苦労はありませんでした。これは転職ならではのやりやすさのような気もしますが、新卒でも当てはまるのかもしれません。新卒ではまともに就活してないので適当なことを言ってます。

 

 

さて、せっかくこのブログでの公表ですので、シャニマスに多大なる影響を受けていることも簡単に触れておこうかなと思います。

とはいえこれはなかなか伝えにくいところです。というのは、ここ数年間はシャニマスのコミュを通して考えをめぐらすことが多く、今の自分を培ってきたもの自体に影響が出ているという大きな話となるからです。

その中でも強いて挙げるとすれば、『アイム・ベリー・ベリー・ソーリー』での花屋バイトは「仕事」に対する考えのある種のきっかけとして印象深かったです。仕事はもちろん生活費を稼ぐ手段としての側面がありますが、社会という場、人と人の間という場から見てみれば、何かを個別具体的な人間に届けるためにあるという側面もあるのではないか、という提言を僕はそこに見出しました。ひいてはアイドルとしてあるべき姿の一例を見出したのがあの話であったと考えてたりもします。

ただし、届けるというのはそう簡単なことではなくて、気持ちがこもっていたら伝わるなんてのは希望的観測に過ぎることは重々承知しています。『はこぶものたち』でサッカーチームを持つに至ったフードデリバリーの会社について「あの人たちも社会の役に立とうとしただけなんだよ」と言われていたり、めぐるが「いいことって思ったより複雑みたい」とこぼしたりしてたことは、気持ちは全然何も保証してくれないという難しさを物語っています。それでも業務を円滑に回す能力をひたすら高めることは「届ける」という側面(あるいは他の何かをも)見失っているだろうし、どれだけ弱々しくても気持ちがそこにあることは尊く、むしろなくてはならないことを掴み取った極点として『YOUR/MY Love letter』があると感じました。

以上のようなことをシャニマスと一緒に考えていたからこそ、仕事を自分の生活手段のためだけにしたくはないと思って探しましたし、その過程で「自分の気持ちに応える」という点を重視したのは、ここ数年の思索があればこそだったと思います。

あらゆる思索がそうであるように結論は常に暫定的で、仕事に対する考え方も新しい業務が始まれば変わっていくことが予想されますが、いかなる思索であれ問い続けることが何より大事であると確信していますので、ひとまずその流れの上で今回の転職を決めることができたのは、個人的にはとても前向きな報告のつもりです。

 

 

 

 

 

 

おまけ

一月に長期無給休暇を生み出したので旅行を検討中です。

案を採用する可能性は低いですが、おすすめがあれば教えてほしいです。

髪への追悼

九年半伸ばしていた髪を切りました。

アイデンティティーを文字通りに喪失したわりにあっさり短髪に順応してしまい、この年月とは一体何だったのかという大掛かりな迷走が始まりそうな始まらなそうな、そんな予感とともに新しい日々を過ごしております。

違和感が漂う移行期間が早くも終わりそうな気配もしており、記憶のあるうちに備忘録がてら長髪への追悼文を綴ろうと思います。

 

切った前後はこんな感じです。

切る前

切った後



伸ばし始めたのは9年くらい前のことで、そこから前髪は整えていましたが、基本的には伸ばすに任せていました。一度後ろをちょっとだけ切って長さを整えたのと、両サイドだけばっさりいったことはありましたが、最長部分は限界までいったと思われます。

ここ一年くらいは一番長いところの位置が変わっている感じがせず、伸びる速度と抜ける頻度とが拮抗したのかなと思います。男女で長さの上限が違うという話を聞いたことがありますが、とりあえず僕の場合はこの辺まででした。

最初は髪を伸ばすのに理由が必要で「どこまで伸ばすの?」と聞かれることが多かったのも、腰に届きそうなくらいになってくると切るのに理由が必要になってきて先延ばしにしているうちタイミングを逸し続けました。長髪あるあるなのかわからないですが「ヘアドネーションできそうだよね」とめちゃめちゃ言われます。体感、珍しい苗字の人が「珍しい苗字ですね」と言われるのと同じくらいの頻度です。苗字珍しくないので偏見ですが、実際かなり言われます。ちなみにヘアドネーションはやってきました。

一応、ヘアドネーションに対しては「女にもハゲる権利はある」というかたちで批判があるのも知っていて、つまりカツラを作ることに協力してはいるけれども、髪がないことが劣っているかのような価値観を助長している側面がなくはないというのは自覚しておきたいところです。というのを踏まえつつ、一般的に性別ごとに普通とされる髪型に反してきたのが自分なわけで、好きな髪型をしたい人がそうできるような方向への助力はやっておいても悪くないのではないかなというのも考えてました。という理屈も用意しつつ、本音を言えば九年半も伸ばしてきた髪を切ることには相当な覚悟が必要で、嘘でも本当でもせっかく切った髪に価値があると思えないと踏ん切りがつかなかったため、ヘアドネーションで動機付けをしていたところがあります。最終的にはさながら臓器提供の気概でした。

それでも切ることにした理由としては単に転職活動を始めるからなのですが、長髪でも働ける職場を探す努力については早々に諦めてしまいました。髪型くらいで人柄を判断するような未熟な社会に対しては反発してやりたい気持ちもありましたが、そこで闘う気力はありませんでした。こういうタイミングでもないと本当に切るタイミングを失ってしまうので良い機会であったのも事実で、ていのいい言い訳としました。

覚悟の決まらなさと言えば相当なもので、髪を切ろうと決めてからも長らく美容院の予約をとれず、うじうじしていました。そのくせ長髪のうちにできることが思いつくわけでもなく、髪を梳きながら名残惜しさに浸るばかりでした。漫画とかで毒が回る前に刺された腕を切り落とす豪傑の覚悟が沁み入ります。

 

そんなこんなでためらいながらもヘアドネーション希望の旨を伝えて美容院の予約を取り、当日になりました。

ドネーションをする団体にもよるのですが、長さが31cm以上必要でこれは折り返して15cmずつの長さにして縫い付けるのりしろ(?)部分のために1cmくらいの余分を設けているとかなんとか理由があるようです。僕の場合は切った部分だけで60cmに届く勢いでした。今回お願いする団体がたしか31〜35cmで、つまり上限を設定しているところだったので、むしろ余分の長さを切り落とす必要すらある長さとのことでした。ちょっともったいないような気もしますが、毛先は分裂してたりしてるせいで質が劣るため、根元寄りのところの方が好ましいというお話でしたので、マグロで言うところの大トロを差し出すようなものだと理解しました。

あとは美容師さんと相談しながらちょっとずつ切っては整えていきました。そういえば美容師さんから聞いて興味深かったことなのですが、ずっと結んでた人は結んでた方に髪に癖がついてて中途半端な長さにすると毛先が巻いてしまいやすいようです。そういう事情もあって後ろはけっこう際まで短くしてしまいました。

 

ここからは髪が短くなってから違和感を覚えたシーンを列挙していくことにします。

・手櫛をしたときに梳き始める前に終わる

・公衆トイレに行って性別を間違われる可能性を考慮しというた方がよかったのが、今度は考慮してる方がおかしいことになってて困惑する

・髪洗うか〜って思った瞬間に洗い終わる。体感0秒

・数年ぶりに寝癖ができるようになった(結んで誤魔化せないし長すぎるとそもそも寝癖などできなかった)

・長い髪が自室に落ちてると故人を偲ぶような気持ちになる

・服を着るときや脱ぐときに顔面に張り付かないように髪をどける仕草が空ぶる

・毛先であった付近に当時髪を末端部分で引っ張ってた動作のような仕草をすると頭皮がちょっとくすぐったい(髪版のファントムペイン

・電車のドア横のスペースに立つとき、座席に座ってる人に髪の毛がかかる心配が無用になった

 

 

切ったの自体はもう二週間くらい前になりまして、この前は切ってから初めて会った人に驚かれて、驚かれることに驚いてしまって、自分はもうこんなにも順応してしまったのかと少々寂しい気持ちでした。長らく好んで伸ばしていた髪を失った影響がこんなにもあっさり引いてしまうと、アイデンティティだったはずのものの存在感が自分にとってさして重要でもなかったかのようで、この9年半とは……と物悲しい気持ちです。

早々に喪が明けてしまわないうちに、ささやかながら追悼を捧げてみたりしてこまします。なむなむ。

10月分の詩選

月に2作品の詩を選ぶ試みを続けています。

最近は特に記事にすることもなく淡々と選んでいたのですが、先月分に関してはかなりいい詩集に出会えて選ぶのにそれなりに悩みましたので、ちょっとだけ書き記しておこうかと思います。

 

選んだのはヴィスワヴァ・シンボルスカの『瞬間』という詩集です。

たまたま本屋で見かけただけなのですが、訳者が沼野充義先生ということで予感めいたものを感じて手に取りました。蓋を開けてみればかなり好きな雰囲気でした。

詩が心の奥深くに潜る営みだとして、その過程で生きることについて考えるとき、人間として生きることに向かうのか生命として生きることに向かうのかという分岐があるのかもしれません。そう思ったのは、シンボルスカの詩を読むにあたって生命としての自分に向き合っているなと感じたからで、その感性がしっくりきて心地よく読み進められました。

 

中でも自分に調和的だったのが「雲」という一編で今月の詩の一つ目になります。

雲の描写は
すごく急がなければならない──
ほんの一瞬で
姿を変え、別のものになっていくから。

という書き出しに始まり、同じ姿にならない雲に軽薄さを見たり、相対的に人生が揺るぎないものに思えたりするのですが、他方で雲は確固たるものであろうという姿勢と関係がない点で超越的な存在にも思えてくる、といった雲をめぐる転回があります。実際のところ超越的という言い方はしていないので僕の解釈が混入していますが、自然のこういう達観したところに畏怖してしまうんだよなぁという共感があります。

雲には私たちとともに滅びる義務もないし
流れゆく姿を人に見られる必要もない。

この節で詩は締めくくられます。

人間への思いやりも残酷さもなく泰然とある自然に最も美しさを感じます。

 

 

今月の二編目は「魂について一言」という詩。書き出しがまず強烈。

人は魂を持っていることがよくある。

「よくある」て……。ないことがあるんかと思うけれども、シンボルスカは魂をふとしたときにやってきたり何年も持てなかったりするものとして描き出します。とんだ世界観だなと思いかけるのですが、実際、自分がきちんと「自分」をやっていることってあんまりないよなと気づきます。だから魂ある存在として自発的に生きていくことを忘れないようにしたい……という程度で終わればかわいいものなのですが、そこは一味も二味も違います。

シンボルスカが述べる魂が一体何なのか、自分はどれほど理解できているのか、あるいは理解する素質があるのか、次第に不安になっていきます。

魂をあてにすることができるのは
私たちが何事にも自信が持てず
なんでも面白いと思うとき。

形のある品物のうち魂が好きなのは
振り子時計と
誰ものぞき込んでいないときでも
一所懸命働き続ける鏡だ。

どういうこと〜?と頭を抱えてしまうのですが、心のどこかで理解が芽生えるような気もしていて、適当なことを言っているわけではなく中身があることを感じます。どういうわけか何かしらの真実を汲み取っているような感触があり、自分も詩人と同じ地平に立ってみたく、こういうものこそたびたび読み返したいなと思ったりもします。

 

 

他にもいいなぁ〜と思った詩がたくさんで、他の詩集にも手を出したいなとも思いつつの今月の詩選抜でした。